010:タチの悪い冗談

 医療室のさらに奥。うず高いプロペラの巨大な支柱の麓には、最初に訪れた植物園より広大な空間が広がっていた。

 だが、漂う雰囲気も情景も全くの別物である。支柱に巻き付くように生い茂るアケビとキノコの群れ。積み上がった堆肥の山。顔を覗かせるミミズの白桃色の頭。立ち込める甘く据えた臭い。


 そして、あちこちに点在する人間たち。

 

 いや、最早人間とすら形容し難いだろう。どの瞳も暗く澱んでおり、欠片の理性の閃きも見てとれない。あるものは立ち尽くし、あるものは糞の山に埋もれ、またある者は支柱をよじ登ろうとした半ばで蔦に絡め取られ、その身に菌糸を張らせていた。

 その体は針金製の人形の様に痩せ細っている。ありとあらゆる栄養と水分を、糞や小便として排出し、即身仏の一歩手前という状態である。然し、そこには強固な信仰心も覚悟も存在せず、ただ途方も無い無力感と厭世観だけが見て取れる。


「酷いな。辺獄だって此処よりはマシだ」


 スペンサーは誰に言うでもなく、ただ呟いた。

 ドーラムにその惨状を問い詰める訳でもなく、ただ心中を吐露した。理由は明白だった。崩壊前の前衛芸術作品を見せられた時のように、その光景が余りに理解し難かったからだ。

 

 糞の山にうつ伏せる者たちはその手足を縛られている訳でもなく、この空間に閉じ込めらえている訳でもない。唯一の出入り口である合成樹脂の二重扉には関貫の一本も掛かっていない。逃げ出す事は造作も無いだろう。

 それにも関わらず、彼等は静かなる死の足音を甘受している。スペンサーにとっては、余りにも荒唐無稽だった。


「貴方には理解できないですよ。スペンサー」


 そう言ったのは、ドーラムではなくピースだった。ジャケットのポケットに両手を突っ込み、スペンサーの半歩前に佇んでいる。そのか細い声は往年のブルースシンガーの歌声のようでも、思春期の少女が啜り泣くようでもある。

 

 それに対し、ドーラムが抗議するように言った。


「ピース、なんて事を言うんだ。彼女は聡明な女性だ。とびきりのリアリストでもあるだろう。納得は出来なくとも、理解出来ないなんて事はあり得ない」

 

「銃口を突き付け必要と知り引き金を引く事と、人を薬漬けにし糞の山の中に放り込むのには全く別の思考回路が要る。その事を理解していないのは貴方ですよ、ドーラム」


「いや、違うな。私は彼等が求めたモノを与え、実行したに過ぎない。その行為に要するのは、結局のところ単純な互助の精神だけだ。万人に備わった代物だよ」


「だからこそ理解出来ないんです。彼女の辞書には絶望の二文字が載っているとは思えません」


「身体のパーツを探し求めていた頃の君と同じ様にかね?あの頃の君は正しく勇猛果敢そのものだったよ。天と地が曖昧になるほどの激痛に耐え、荒漠のコンクリートジャングルの中からちっぽけな義肢を掘り起こした」


 感慨深そうにドーラムが語り、その視線をスペンサーへと向ける。


「それで、どうかな。君はこの場所に何か見出せるか?」


 口を結び続けていたスペンサーは、鼻をつく異臭も忘れ、低い声で囁くように言い放った。


「意味があるかだって?意味なんてあるわけがない。絶望したからと言って、荒れた山を登り、薬に溺れ、糞に埋もれる。そんなことに意味があるはずがない」


 はっきりと言い切った。だが、その言葉の節は揺れていた。


「本当にそうだろうか?彼らは望んで此処に訪れ、身の破滅と薬の桃源郷を求め、そして自らを他の生物の糧とした。其処に意味も道理も無いと言えるだろうか?」


 その問い返しにスペンサーは何も答えず、ただ中指を突き立てた。そして、ピースに静かに問うた。


「ピース。この男との付き合いは長いんだろうが、コイツは昔からこうなのか?此処に横たわっている連中とも面識はあったのか?」


 ピースは困ったように肩をすくめる。中央に聳えるプロペラの巨大な支柱へ視線を向ける。


「出会った時以来、此処は何も変わっていませんよ。全てを捨てた人間だけがやって来る。そんな場所です。例えば、あそこの蔦に絡まっている男はジョー・ブラックという名でした。元々、詐欺をやっていて数多ある入植地から総スカンを喰らい、此処にたどり着いたらしいです。性格は捻じ曲がっていますが、話は面白い男でしたよ…」


 スペンサーの方へ視線を戻し、強化ガラスの瞳で見つめる。


「此処にいる多くは悪人でありますが、そうでない者もいます。共通するのは、平等に堆肥に変わる運命にあるということだけです」


「ピースはそれをどう思う?」


「意味があるかと言えば、あると思います。太陽の砦がここまでの土壌を有するようになったのは、外部から新鮮な有機物が自ら這い寄ってきたからです。事実として、此処は人の死体でできている。その中には、の私の身体も含まれていますよ。ですが、此処が果たす役割は種の保存です。土壌が増えればそれだけリスクは減る。その意味では、私や彼らの死体には意味がある」

 

 ただ淡々と言葉を並べるピース。勤めてそうしているように聞こえる。そして、最後にこう付け加えた。


「それに、です。私たちが受け取った除去フィルターだって元を正せば死体です。彼らの選択を無意味と言い切ってしまうのもまた、道理に適っていないのではと考えうるのでは?」


 スペンサーは目を伏せ、感情を押し隠し、吐き捨てるように言った。


「薬に濡れた脳味噌が、“選択”なんて笑わせるな…」


 彼女は扉へと踵を返し、乱雑にそれを開けた。そして、何も言い残す事なく、その場を後にした。


 後に残された二人は顔を見合わせる。気不味い沈黙が流れる。辺りには羽虫の飛び交う音とドームの頭上で回転するプロペラの羽音が響いている。

 凡そ静寂とは呼び難い空気感を最初に破ったのはドーラムだった。


「実に面白い結論だ。彼女は考えに考えた末に、ある結論に至ったわけだ。至って当然にして、容易には至れない結論。何も分からないという結論だよ」


 感慨深げに語るドーラムに、ピースは呆れた様に言い返した。


「それは褒めているんですか?それとも揶揄っている訳で?」


「最高の讃辞さ。実際のところ、私の突き付けた問いに普遍的な答えなんて無い。合って良いはずがない。そういう類の質問だ。こういうのに普遍の価値観を持つのは総じて糞野郎だよ」


「貴方の様に?」


「そうだとも。そういう意味で言えば、彼女は何処までも『正当』だと思うね」


「とは言え、貴方が此処の管理方針を変える気はないんでしょう?」


「それは愚問だな。此処はこの汚染地帯に残された唯一の生態系だ。それが多少歪であろうと止める気はない。それがハナから私のだ」


 ピースは事もなげに天を仰いだ。蓄光ビニールの向こう側では、灰色の汚染雲の切れ間から紫外線が降り注いでいる。美しい光景だ。少なくとも、見る分には。


「そうですか、全くもって野暮でした。ですが、これで得る物がなかった訳じゃない。暁光というヤツですね」


「へえ、それは興味深い。答えの分かりきっている一問一答から何を得たというんだ?」


「そうですね、実に十年近く考えて漸く得た答えですよ。どうして私が貴方を好きになれず、寧ろ心底嫌悪しているか?そして、会ったばかりの彼女を気に入ったのか?という問いの結論です」


「ショウジョウバエの塩基配列ぐらいには興味深いね」


「あのハエのゲノムが解析されて、一世紀以上経っているという事実を鑑みれば、どれだけ興味ないかなんて押して知るべしという事ですか?」


「はは、そう言わず。折角だから聞かせてくれないか?」


 そう問われたピースは、ポケットから電子タバコを取り出して口に咥えた。上手く言語化してやろうと、試みた。思考を文字に起こす事は難しい。それは下らないNAWの特集記事でも、ややこしいバロウズの小説でも同じ事だ。誰もがケルアックの様にロール紙に活字を叩き込む事は出来はしない。

 

 ピースの口から言葉が吐き出されたのは、リバシンの蒸気で出来た輪っかが霧散した後だった。


「同族嫌悪ですよ」


 嗚呼、清々したとばかりに、もう一度大きく電子タバコの蒸気を吸い込んだ。

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