第4話 家で

 その夜、じゅんは自分の部屋で勉強机の前に座っていた。

 何もしていない。ただ座っているだけだ。

 頬がゆるんでいるのが自分でわかる。

 わざわざ机の上に置いてある化粧鏡を引っぱり寄せ、拡大鏡ではないほうを手前に向けて、自分の顔を映してみる。

 頬がゆるんでいるかどうか、映して確かめたかったからだけど。

 それより、というより、それも含めて

「へえ。馬橋まばし順、こんな顔なんだ」

と思った。

 顔が色白で、つるんとしていて、無表情。

 それが順自身が思ってきた馬橋順の顔だ。

 たしかに、唇を「つっ」と閉じたところは、不機嫌寄りの無表情に見える。

 でも、肌は自分が思ったほどつるっとはしていない。色白なのかも知れないけど、ちゃんと肌色をしている。それに、右顎のところに小さいほくろがある。

 前からあったのだろうけど、生まれてはじめて知った。

 鏡を元に戻し、ほっ、と息をつく。

 さらにゆるんだ笑顔になっただろう。

 お母さんに怒られなかった。

 それが、いま順が頬をゆるめていられる理由だ。

 高校生にもなって、気もちがお母さんの機嫌次第とは情けないと自分で思うけれど、そういう家に住んでいるのだからしかたがない。

 家にいるのはお母さんと順だけ。その状態での生活が、小学校の途中からずっと続いている。

 しかも、順が従順にしていても、お母さんはときどき機嫌が悪くなり、いきなり怒り出したり、口をきいてくれなくなったりする。

 中学生のころまでは、だから順もずっと「お母さんに怒られているときの表情」のままでいたのだけど、いまは考えが変わった。

 一人でいるときには、嬉しそうなときには嬉しそうな表情をしよう、と思うようになった。

 そうでないと、嬉しい顔をする方法を忘れてしまうから。

 今日は、帰って来たらお母さんには怒られるだろうと思っていた。

 真新しいエナメルの靴を砂ぼこりで汚した上に、帰るのが五時過ぎと遅くなった。

 そのうえ、マーチングバンド部に入部する、ということを決めてしまった。

 中学生のとき、順がバトントワリング部に入ったとき、お母さんは喜んだ。大昭だいしょう中学校のバトントワリング部は全国的に名を知られている部活動だったからだ。

 でも、順が全国大会で演技するチームのメンバーに選出されると、お母さんは

「いつまで棒をくるくる回して喜んでるの? 成績も下がってるのに」

といやみを言うようになった。全国大会に出場して金賞の成績を取ってもお母さんはぜんぜん喜んでくれなかった。

 「成績が下がっている」のは事実だったけど、そこは懸命に勉強して瑞城ずいじょう女子高校の特別進学コース「GS」に合格した。それを伝えたときも、お母さんはぜんぜん喜んでくれなかった。

 だから、今日も「マーチングバンド部に入部を決めた」と言うと、怒るか、不機嫌になるかだと思っていた。

 でも、晩ご飯のときのお母さんは機嫌がよくて、順がその報告をしても

「そう! だったらしっかりがんばりなさいよ」

と言うだけだった。

 「言うだけ」というより、むしろ目を輝かせてそう言った。

 それで、それに続けて、順がお母さんに

「真新しいきれいな靴を買ってくれてありがとう。学校でだいじなことがあるときには履いて行くね」

と報告すると

「順が気に入ってくれて嬉しいわ。履き心地はどう?」

ときいた。そこで

「いいんだけど、幅が足りなくて窮屈」

なんてことは言わない。

 「ぴったりの大きさだった。ありがとう」

と言う。

 「学校でだいじなことがあるときには履いていく」とは、だいじなことがあるとき以外は履かない、ということだ。

 だから、その靴は、帰ってきてすぐ、いて、クリームを塗って、靴箱の左上にしまっておいた。

 かわりに、順はもう一足の真新しい靴を出し、自分の部屋まで持って来た。

 制服とセットで買った瑞城女子高校の制靴。

 靴紐のないローファーなのだが、ストラップのところにちょっとだけ飾りがついている。そういうところが、制服のひだ飾りと同じような、瑞城流のおしゃれなのだろう。

 その瑞城の制服は着て登校するのが必須ということだ。上にカーディガンを羽織ってもセーターを着てもコートを着てもかまわないが、ともかく制服は着て行かなければいけない。

 しかし、制靴は履かなくていい。別の靴を履いて登校してもかまわない。

 今日、会った子たちも、制靴を履いていたのは大里おおざと真茅まかやだけだった。

 あの、大柄の、というか、巨体の新入生だ。


 * 次エピソードは4月30日午後8時ごろ公開の予定です(変更になるかも知れません)。よろしくお願いします。

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