第3話 出会い

 昼ご飯を食べ終わってトレイとカップを返し、食堂から外に出る。

 食堂から広い廊下を通って少し行けば下足場だ。

 今日はまだクラスも決まっていないので下足場の自分用の箱はもらっていない。靴は袋に入れて持っている。

 靴袋からあのエナメル靴を出して、また履かなければいけない。

 来たときは上履きを持って来ただけだったのに、もらった教科書を買ったばかりの制鞄に入れて持つとずっしりと重い。

 あんな窮屈な靴でこの重い荷物を持って、家までたどり着けるだろうか。

 たどり着けるだろうか、と思ったって、たどり着かなければどうしようもない。

 だから、よけいに憂鬱ゆううつだ。

 ぴっ、というホイッスルの音がした。

 続いて、しっかりした、きびきびした声。

 「はい、新入生、っていうかはっきり言って毛受めんじょ愛沙あいさ! リズム乱れまくり。なんで足踏みしながらリストトワールって単純な動きでそこまでリズムが乱れるかなぁ」

 リストトワール、って?

 はっ、とした。

 思い出した。

 じゅんは、いま、教科書とかが入った真新しい制鞄せいかばんと靴袋以外に持っているものがある。

 バトン。

 バトントワリング用のバトン。

 長いし、見た目よりも重い。ほかの荷物といっしょに提げていると地面に擦りそうになって気をつかう。

 さっきから何度も

「こんなの持って来るんじゃなかった」

と思っていたのだが。

 その声がするのは、下足場とは逆側のグラウンドのほうらしい。

 リストトワールというのは、手首でバトンを回す、バトントワリングの基本の技の一つだ。

 それもできないのか?

 いま怒られてる子は。

 「いやあ」

 緊張感のない、ふわふわした声が答えている。

 「一か月やらないあいだに、なんか勘が働かなくなって」

 順は急いでそのグラウンドに出ようとする。そこには、靴さえあれば、下足場を回らなくても出られるようになっているらしい。

 だから靴袋からあのエナメル靴を出そうとした。

 でも、そのためには教科書の入っている鞄を置かなければいけない。そして、自分のバトンも。

 順がもたもたするあいだも厳しい声は続いている。

 「いや。愛沙って中学校のころからリズム感あんまり良くなかったろ?」

 先輩らしい声が答えている。それに答えて、さっきの柔らかい声が

「えへへっ」

とごまかし笑いしている。

 いや。

 いくら勘が働かなくなっても、ステップを踏みながらバトンを単純に回すだけでリズムが乱れるもないだろう。

 そんなよけいなことを考えるからか、小さめのエナメル靴は、なかなか順の足を入らせてくれない。

 玄関と違って、腰を地べたに下ろして座って履くわけにいかないから、なおさら。

 しゃがんで、まず左足の爪先のほうを靴に入れて、左足で靴の周囲をなぞりながらかかとを靴に入れる。靴が硬くて何度も失敗した。

 右足はもっと手こずった。

 靴をだいたい履き終わったところで顔を上げて見てみると、さっきから声を立てているのは、少し向こうにいる女子生徒三人組らしい。

 三人とも、さっき順も注文したばかりのこの学校の体操服を着ている。

 一人が校舎側のコンクリートの段の上に立って見下ろしている。背が高く、髪も長い女子生徒で、たぶん先輩だ。

 怒られていたのは、その向かい側、運動場の地面に立ってバトンを持っている女子だろう。

 もう一人、その向こうで、バトンを持って、その二人の様子を微笑しながら困り顔で見ている、ちょっとふっくらした感じの生徒もいる。

 いや?

 怒られている生徒は、バトンを、きちんとバランスがとれるように右手で持って、顔を上げて背を伸ばしている。

 たしかに顔に浮かべている笑みは甘いけど、さっき、先輩とのやり取りを聞いただけで想像していた甘えん坊とは違う感じだ。

 初心者は、こんなふうにバトンをきちっと持つことはできない。

 どういうことだろう?

 順は立ち上がった。

 そして、いきなり「むにゅっ!」。

 順の頭が柔らかいものにつっかえた。

 いや、肩もやわらかいものに当たって、動きが中途半端で止まっている。

 「あ、ごめん」

とうわずった声がした。

 「……?」

 その声にゆっくりと振り返ってみて、順もあわてる。

 「あ、こっちこそごめんなさい!」

 そこには女子生徒がいた。

 その子が校舎からコンクリートの段へと下りてきたところへ、いきなり順が立ち上がったのだ。それで、その子の左腕に、立ち上がった順の頭と肩がぶつかってしまったらしい。

 さっと跳びのく。

 左足がコンクリートの段の上ではなく、段の下の地面に着くことまではわかっていた。

 ところが、靴が小さくて、いつものように靴底で地面をグリップできない。

 転びそうになる。

 「ああ危ない」

 緊張感のない声が聞こえて、順の左手首がぎゅっとつかまれる。

 制服の白い袖口から外に出た肌の部分だ。

 柔らかい。

 そして、温かい。

 えっ?

 わたしがほかの人に手をじかにつかまれて……。

 ……それで平気でいるの?

 「あっ」

 順の声はのどが絞まったまま出した、苦しい声だったろうと思う。

 そう思って見上げた相手は、その、丸い、全体に赤みを帯びた顔で、順を見下ろしてほほえんでいた。

 まちがいない。

 さっき、クロワッサンサンドを半分くらい食べたころに食堂に入ってきた巨体の一年生だった。

 「えっと」

と、その子は順が倒れる心配がなくなるまで手を握っていてくれた。

 「マーチングバンド部のバトントワリングパートの見学だよね?」

 順の手を放してから、その巨体の子が無遠慮にきいてくる。

 ほんわかした、でもしっかりした声で。

 「そ……」

 順はやっぱり声が出ない。

 それは、緊張が取れないからだ。

 それに、「バトントワリング部がなくてもマーチングバンド部があって、マーチングバンド部にバトントワリングパートがあったのか!」ということに納得するのに時間がかかっていたからだ。

 「……うだけど」

 「じゃ、行こ!」

 その練習している生徒たちのほうに。

 順は、行くともなんとも言ってないのに。

 でも、行かなければいけないのはわかっていた。

 大柄な子が前に立ち、順が後ろからついていく。

 大柄な子の存在感が大きいからか、ちょっと行ったところで相手の三人が気づいた。

 最初にこっちを見たのは怒られていたらしい幼い顔の生徒だ。それから、向かい側に立つ背の高い先輩と、もう一人のぽっちゃりした先輩がこっちを見た。

 「あれ? 入部希望?」

と聞いたのは、向こう側からこっちを見ている、ぽっちゃり型の先輩だった。

 「はい」

 大柄な子よりも前に、順が答えていた。

 どうしてそんな答えが出てしまったのか、順自身にもわからない。

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