第24話 文選問答

「マキビ殿の仲間か?」

 李白はほかの遣唐使と思ったのだろう。だが地面を叩くそれは人馬が隊列をなして轟かせる物々しさがあった。一団は杜甫の家にとまると、どう説き伏せたのか、彼の妻を引き連れて離れのほうまで一直線にやってくる。


 総勢は二十人あまり。みな朝服の文官で、それらに包まれて、ひとりの老人がやってくる。その病みきった青白い顔貌をみた瞬間、杜甫は引き攣ったように喉から声を絞りだした。


「李林甫だ・・・・・・」

 なぜここに、という想念はすぐさま脅迫状の件につながった。

「ヤツもまた、脅迫詩が我が友の作品を模して作られていたことを調べ上げたのか?」


「どうでしょう」真備は李白の疑念に首をかしげる。「監察御史かんさつぎょしをつれているようにもみえない。明確な証拠はまだ掴んでないのかもしれません。ですが・・・・・・」


 真備は離れを見回した。小さな四阿のような広さに、所狭しと書き損じの木簡が散らばっている。或いはここに『兵車行』の草稿も潜んでいるのではないか。


 見つかれば、釈明はできまい。


「李宰相のおなりである。杜子美という者はおるか!」


 返事する暇もなく、庵の戸は叩きつけるように開けられた。李林甫は戸の前に進みでると、小さな部屋に散じている木簡を見回して、それから真備に目を移した。


「ほう。お前はいつぞや華清宮でみかけた東夷の翁」

「ははあ」

 真備は平伏する。

「して、悪巧みの算段か」

「滅相もない。私が何を企みましょうか」

「たとえば、娘子おくさまの暗殺」


 小さな離れが膨らみ弾けるほど、凄まじい緊張感が生じた。


「その男、どうやら今朝殺された醜い胡女の馴染みであったと聞く。そしてその醜女が所持していた紙の香から、娘子の脅迫状と同じ香の匂いがしたとなれば、怪しむのも無理はなかろう。まして市局の者がいうに、死体を発見したのは道士服の男と東夷の老人というではないか。もしや発覚を恐れて殺したのではあるまいな」


 杜甫はすがるような目でこちらをみる。

 真相を話すべきだと言わんばかりだ。だが真備は目顔で抑えた。――違う。この男にとって真相など無意味だ。ただ揺さぶり、慌てて述べた弁明を逆手にとって賊とする。手柄を得るなら、事実の正誤など顧みることはない。


 したがって、すべきことは彼の壇上にあがらないことである。


「はたしてそうでございますかな?」

「なに?」

「宰相殿は高貴な身の上のために馴染みがないと思いますが、下々の者はみな戸に錠などかけません。したがって、あの部屋から香の染みこんだ紙を盗み取り、脅迫文を書ける者は大勢おりましょう。長安はおろか洛陽に棲まうものまで視野に入れねばなりますまい」


「罪人はよく口が回るというぞ」

「であれば、弁士をみんな死刑になさいますかな?」


 無言の睨み合いが、戸口の敷居をへだてて交わされる。


「・・・・・・あるいはそうかもしれんな」

 と、李林甫は折れたようにいう。


 が、瞳に映る狡知のよどみは、深く、底のない沼のようだ。


「だから、此処へ来た。脅迫詩は品のない悪文ときく。もしもここに散らばる尺牘や竹簡から、脅迫文と同じ匂いがするのであれば、これを証拠として貴様等を引っ捕らえる」


 匂いというが、なにも乳香や沈香のことではない。彼等は杜甫の習作のひとつふたつをつまみあげ、作風が似ている、筆致に覚えがあると嘯いて、無理矢理しょっぴく肚なのだ。


「それはあまりにも」

 恣意的すぎる。そう杜甫は苦言を述べようとしたが、能吏を一人残らず葬る老宰相の邪眼は、ひとにらみで、洛陽の田舎文官の口を塞いでしまった。


 李林甫の悪政ここに極まれり。

 そう心で嘆く杜甫のそばで、真備は厳かに微笑んだ。


「たしかにここにあるのは悪文でございますな。しかし宰相殿、お探しの悪文にまぎれて、じつのところ、それよりもさらに醜悪極まりない悪文が、ここには転がっておるのをご存じでしょうか」


 そういって、真備は一枚の竹簡を差し向けた。筋目のはいった竹の表面には、墨痕淋漓と瑞々しい唐墨で、数行の文章が記されていた。


「ここにおわします宰相殿は言わずもがな。うしろに控えられる文士のお歴々も御笑殺ください。これは私の筆の痕。記されているのは文選の一節」


「なに?」


「我が国にも誉れ高き『文選』は知れわたり、金文のすばらしさは万人の知るところです。かくいう私も稚拙ながらいくつか諳んじられますが、如何せん、東夷の者ゆえ字句すらうろ覚えなのです。ここにおわすお二人は、皆様のように輝かしい官職には就かれていないながらも、文才にすぐれ、漢籍にも明るい。それゆえに教えを乞うていたのですが、これは勿怪の幸い。竹林の七賢のお導き。皆様は名のある能吏の方々なれば、ここでひとつ東夷の蕃客に御清談ねがいたい」


 真備は膝をすすめて、渋面の一団ににじりよる。


「皆様は息を吸うより容易なはず。なにせ名を印されない詩文から詩家を特定できるとおおせだ。この一節の正誤ぐらい一瞥の内に終えられるでしょう」


 錦の御旗のように、その手にした竹簡を、今まさに離れに押し入らんとしていた阿諛追従の輩に突きつける。



「さあ。これは如何なる作家の詩文か! 作品の名は! 果たして正か否か!!」


 真備の細竹は、神仙の効力を発するように、奸智の徒をたじろがせた。

 阿諛追従の輩は、果たして『文選』の一篇さえ通読したかどか。皆、清められた聖域をいとう妖怪のごとく、敷居から後退き、周りの者と目交ぜして低くうめきをあげた。


「或いは宰相殿をもって、その正誤を御教授されますかな」


 李林甫は差し出された竹簡に目もくれなかった。

 かわりに憎悪のこもった眼差しで真備を睨んだが、とたんに酷い咳を発して、痛々しげに身体を折り曲げた。文官たちはこぞって彼のもとに駆けつけて体調をうかがう。


 時の宰相は、それらを羽虫の如く手で払いのけ、折った身体を苦しげに伸ばした。

 真備を見据える眼光は、いまだ昏い執念の炎に燃えていた。


「東夷の翁よ。貴様が誰の掌で踊っているのか、知るすべもないことを哀れにおもう。早々に鑑真和尚をつれて、この国を去らねば、首は長安の市に晒されると思え」


 李林甫はそれだけを言い残して、服の裾をひらめかせて去っていく。


 舌鋒によって人を追い落とし、舌戦によって地位をきづいた男の、それは呪いのような言葉だった。


 耳朶からようやく李林甫の一団の靴の音が消え去った後、杜甫がほっと息をついて、ふと真備の持っていた細竹に目をやった。なにか強く引きつけるものがあったのだろう。確認しようと何気なくもらい受けて、くるりと細竹を反転させた彼は、たちまち怪鳥のような悲鳴をあげて、焼け栗を拾ったように竹簡を側板に投げつけた。


「どうされました?」

 真備が彼の奇行に目を見張った。

 杜甫の顔は李林甫が来たときより、さらに真っ青になっていたのである。


「そ、それで御座います!」

「それ?」

「貴方が拾い上げた竹簡。それが、某の書き損じで御座います!!」


 転がった竹簡の裏面に戸口から暮色の日差しが当たる。

 斜陽をあびて朱く輝く竹面には、杜甫の墨痕で『兵車行』と題されていた。

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