第23話 治療と密室

 中庭を隔てた庵のような小さい離れが、彼の書斎だった。


 文机がひとつと硯と筆、いくつかの書籍以外は、すべて木簡や竹簡で埋め尽くされ、そのどれにも詩や賦が書き散らしてある。下級官吏には、紙に書くことさえ惜しいという。――糊口を凌ぐ日々の杜甫は、友と客人を自分の書斎に招くと鬱積を晴らすように滔々と語り始めた。


それがし集覧院しゅうせきいんに勤めてから、次第にこの国の内情がみえてきた。裂いてみるまでもなく、針で突くだけで腐敗した内臓がまろびでる。高官は暴利を我が物として法悦にひたることに忙しく、下級官僚は阿諛追従に忙しく、市井を鑑みる余裕など一つとしてない。それに乗じて狡猾な李林甫が能吏を排斥して、阿るだけの無能を集めて悦に浸る。白大兄、ご存じであろう。皇城はいまや堤を潰す螻蟻ろうぎの巣窟。文選もんぜんの一篇すら暗誦できないものが平然と闊歩している」


 文選もんぜんとは、紀元前八世紀から六世紀までの、傑出した八百あまりの漢詩・賦・文章を収録した詩文集で、官吏登用の科挙において、必携のテキストであった。


「知っているか、日本の官吏よ。貴殿が目にした三省六部の大伽藍は、その実、空っぽなのだ。皆、李林甫の私邸にあつまり、ごますり茶坊主共の大宴会よ。その様をみせつけられ、この亡国如何すべしと苦悩しているとき、あの女にあった」


「景々ですな」

「酷い名だ。景教を信奉する娘というだけの意味しかない。金樽楼の娼女たちがつけた名だろう。あるのは嘲笑ばかりだ。聴く度に孤独を感じると言っていた。本当の名はマリアといっていた。彼女の母国には多い名前らしい」


 素晴らしい音韻の賦を口にしたように、杜甫は彼女の名をよんだ。


「国をおおう晴らしがたき暗雲に悲嘆にくれて、延興門の前で、したたかに酔い潰れていたとき、恭しく介抱してくれた女人が彼女だった。心優しい女性だった。なにかのついでに身の上話となり、きづけば赤子のごとく何もかも吐露していた。そうさせる魅力が彼女にはあった。某はそんな彼女に甘え、ひもじいときは糧食を恵んでもらい、金のないときはなにかと無心した。彼女は嫌な顔ひとつせず恵んでくれたよ。なぜここまでしてくれるのか、あるとき聴いた。するとそれが耶蘇教のおしえだと言った。――汝、隣人を愛せよ。彼女は異国の者ながら仁者であった。あの日もまた、そんな彼女の御心に触れるため、あの旗亭にいった。すると一人の胡人が声をかけてきた」


「胡人?」

紫髯緑眼鬈髪高鼻しぜんりょくがんけんぱつこうび。典型的な胡人だが、右頬の笑窪のあたりに大きな刀痕がはしっているめんの男だった。彼は以前から金樽楼に入り浸っていた胡人だったが、ある日、某の詩才を風説に聴いたといって、酒銭は自分が払うから、そのかわりに詩を聴きたいといって燕飲をうながし、こちらも気を良くして盃を干した。某がしたたかに酔ったころ、男はひとつの詩をいたく気に入ったようだった。それは去年頃につくった『へいしゃぎょう』というがくたいの作品で、徴発されていく兵士たちの悲哀をうたったものだ。彼はその一部を替え歌のごとくもじって、口にするにも恐ろしい詩文をつくった」


「もしや楊貴妃の死をするものでは?」

「あの胡人、やはり某の『兵車行』を盗用しましたか」


 真備はうなずいて、自分がどういう過程で改悪された脅迫詩を知り、それを追ってマリアにたどり着いたのか、語って聞かせた。


「たしかにあの日、疵面の胡人は書き付ける物を求め、某はヤツに一枚の尺牘をあたえた。高官に献ずるときのため、マリアが没薬や乳香を焚きしめた紙片だった。そのあと、しばらくして、同僚から貴妃様が何者かによって脅迫されていると口々に囁き始めた。能のないヤツは総じて口さがない。こういう噂は直ぐに出回り、宮内は大騒ぎだったが、決して天子様の耳に入ることはなかった。箝口令をひかずとも、もはや世のことなど、もう天子の耳には届かない仕組みが出来上がっているのです。――先日、人づてに奇妙な女が東市の市局に出入りして、マリアのことを探っていると小耳に挟んだとき、そくそくと恐怖を覚えたのを今でも覚えている。だから某は居ても立ってもいられず、今朝、マリアを訪ねていった」


「貴方はあの場所にいたのか!?」


 杜甫は深く、悔やむようにうなずいた。

「いたとも。店の敷居は跨がなかったが、軒先から轟いた彼女の悲鳴を往来で聴いた。そしてあろうことか、某はそこから逃げ出した!」


 彼は両眼から悔恨の涙をながした。

 無私で支えてくれたマリアの悲鳴をきいて逃げ出してしまった。浅ましく恩知らずな自分への忿怒と後悔は、茨の鞭のように彼の背中を打ったという。


「それにしても分からんな」

 と、李白がいう。

「マリアという胡女を殺したのは疵面の胡人であることは、この際、疑いない。しかし、どうやって部屋から消え失せた?」



「それについては、おそらく分かり申した」


 突如として謎の解明に到ったという日本人に、李白は驚愕の眼差しをむけた。


「なんと! して、どのような」

「これは老人の他愛のない思いつきでありますが」

 白鬚をしごきながら、真備は推理を披露する。

「疵面の胡人は、


 仙人のような李白も、これには呆気にとられた。


「貴公、忘れたか。二間となりの男女は、跫音ひとつも聞かなかったと言っていたではないか」

「我々は大きな誤解をしていたのです、道士」真備は思い込みの激しい自分を嗜めるように言う。「被害者が助けを求めたからといって、そのとき、襲われているとは限りません。たとえば、、助けを求めることだってあるのです」


「じゃあ、まさか、あの突っ張棒は――」


「そうです。あの棒は、被害者のマリアが、ふたたび疵面の胡人が戻ってこないように用心として掛けたのです」


 ふたりの詩人は呆気にとられて、たがいに顔を見合わせた。


「しかし、ほんとうにそんなことが起きたのか?」

「何を仰いますか。彼女が暴行を受けたあと、少しばかり意識があったと決定づけるものを見つけたのは、ほかならぬ貴方です、道士」

「オレが?」

「貴方が見つけた香炉の蓋に付着した粉末です。久しぶりで、すぐに気づかなかったが、あれはだ」


「言われてみればたしかに乳香だ。だが、なぜ乳香を砕いた?」


「治療のためですよ。彼女はあのとき、頭部の傷を癒やすため、香炉の蓋で乳香を磨り潰して、負傷した箇所に塗り込んでいたのです。だからこそ、右手の掌には、血だけではなく乳香の粒子も付着していた。彼女は生きようとしていたのです。だが、傷は彼女が思っている以上に深かった。ようやく助けを求めようと声をあげたときには、もう――」


「絶命したのか」

 沈黙が流れた。静けさはマリアに捧げる黙祷だった。


 だが、それもつかの間のこと。

 杜甫がむくりと立ち上がり、戸口に耳をよせた。


 彼から数秒遅れて、他のふたりも次第に人馬の響きが地鳴りのように迫ってくるのを察したのである。

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