第22話 歴史に残らなかった邂逅
「その男ならば知っている」
仲満は膝を叩いた。
真備たち遣唐使四人は、正午の太鼓の音を鴻臚客館で聴きながら、各々の成果を――というより、真備と古麻呂が、金樽楼で出来した怪事の説明に時間を費やしていた。
「一言でいえば浮浪。食い詰め浪人だ。科挙に受からず、名のある人に推挙して褒賞されて官職についた口だ。俺なども
仲満は昔の自分を懐かしむように髯を撫でた。
「彼もそうした者のひとりで、有力者に自分の才能を認めさせようと躍起になっていた。いつも尺牘に詩や賦を書き付けては高官に献ずる。いってみれば、才の押し売り、或いは高潔なる物乞いというべきか」
「では今も?」
「たしか
「出来が悪かったのか?」
「いや逆だ」仲満は苦笑する。「俺も一読したが、あれは悪くなかった。むしろ他の文官より随分と秀でている。天子も褒美として長安の郊外に家を与えたぐらいだ。しかしながら、内容が如何せん暗いのだ。昇進は望んでいないと言いながら、暗に自分を重用しない周囲を斜めにみる心根があからさまで、あまりウケが宜しくない」
「あの脅迫詩を搔きかねない男か?」
「是であり否だな」仲満は勿体つけた言い方をする。「生活は困窮して、政治に憤りをおぼえ、肥大した自尊心を抱きかかえているが、一方であんな稚拙な脅迫詩、たとえ家族の命を天秤に掛けても、決して衆目に晒さない男でもある」
「つまるところ仲満。お前は杜子美が脅迫詩をつくり、胡女を殺したと思うのか」
「・・・・・・わからん」
仲満は髭をねじった。
「人は善人であっても人を殺すし、悪人であっても人を助けるものだ。だからまぁ、すべきことはひとつだろうよ」
すくりと彼は立ち上がった。
「かの者の住居を調べてくる。さきに語った礼賦で得た家だ。そこに我々が赴き、鴻臚寺に引っ捕らえて尋問するのが早かろう」
これには皆賛同して、捕り物の準備に取り掛かるべく、その場で解散となった。脅迫主を捕まえ、功を得て日本に凱旋できるとあって、清河卿や古麻呂などは気炎をあげていたが、唯一真備だけがつきない煩悶に囚われて、耳房の椅子に腰掛けていた。
――杜子美が賊だとして。
つまづく論点はなぜ胡女を殺したか、である。
道士曰わく、杜子美は金樽楼の馴染みだった。とすれば景々と呼ばれていた胡女をあげて、あの部屋にあった紙片で脅迫詩を書いたことに間違いはなかろう。
では、なぜ景々を殺したか。
――書いたところを見られたか?
莫迦莫迦しい話だ。貴妃を脅迫すれば一族郎党皆殺しは免れまい。命を失う怖れがある詩を娼女の前で書くだろうか。
「わからんな」
「悩んでおられるな、倭の客人」
真備は童子の如くわっと声をあげた。
格子窓の隙間に道服の翁が立っていた。
「道士、なぜここに」
「しずかに。ちょっとばかし、朱雀門に出ていらっしゃい」
怪しくもあったが彼に着いていくことにした。朱雀門には道士が二本の手綱を握って待っていた。立派な栗毛の馬が二頭、鞍を背にして待っている。入城のときに騎乗して鴻臚寺に留めていた馬である。どんな仙術を使ったのか、彼はそれを悠々と引いていた。
「杜甫の家に行くのであろう」
「ええ。そうですが」
「ならば善は急げだ。すぐ行こう」
「では他の者も」
「それはいけない」道士は断乎としていう。「杜甫の家で大捕物を演ずるおつもりだろう。彼の友として、それは許せん」
酒気に火照った顔に、毅然とした瞳がひかる。
「だが、その一方で、景々が我が友の名を口にしたのも気になる。オレはこう見えてもせっかちでな。すぐにでも行きたいが馬がない。長安まで乗ってきた馬はすぐに酒の銭にしてしまった。そこで思い立ったのだ。貴殿のことさ」
「それで我々の馬を」
「オレひとりが乗れば盗みだが、あんたがいれば遊歴の徒だ。さ、ゆこうマキビ殿」
わずかな逡巡のあと、真備はさっと馬に乗った。
二人は朱雀門より南下して明徳門から南杜陵をのぼっていく。長い道のりではない。まして道案内役として道士が先頭を駈けてくれるため、すぐに杜甫の家はみつかった。
そこは荒ら家だった。
竹垣はくずれ、屋根は一部瓦が剥げて地肌がみえている。天子から下賜されたにしては、あまりにも見窄らしい。郊外にあって広さは充分だが、それにゆえに物のない一層わびしい家だった。
軒先では、みすぼらしい三十すぎの女が、雨水をためた甕から水を汲んでいた。被衣は袖がほつれ、何度となく継ぎ接ぎした跡がある。彼女は門前にたつ身なりのよい男性ふたりに気づくと、警戒した野兎のようにすっと背をのばした。
「どちらさまでしょう」
「私は日本よりやってきた吉備真備と申す者です。実は私の知人で、またこの家のご主人もご存じの方が早朝亡くなったので、その訃報をとどけに――」
「主人はいません」
女はぴしゃりという。
「では、何処いらっしゃるのか」
「存じません」
それだけ言うと、足早に荒ら家に入っていく。そして戸という戸、窓という窓を閉めて、かたく籠城のごとく閉じこもった。
「振られたな、マキビ殿」
遅れてやってきた道士がからかう。
「異国の、ましてや人品のある人がおとなえば、だれだって怪しもう。――ここはまあ、オレの出番だ」
道士は家の水甕で口を潤すと戸口の前で浪々と詠い始めた。
「天の我が材を生ずるは 必ず用有り
山間に木霊する声は、聴くものすべての耳をよろこばせた。
それは言うまでもなく、家屋の奥に潜んでいた人物の琴線を強烈につまびいた。
人虎のような雄叫びが、荒ら家の奥から生じたのだ。
「その声は、わが
母屋のすそから、蓬髪の男が現れた。
齢は四十半ば。四肢はほそく痩せ衰えているが、その目は獣のように炯々とひかる。彼は蹌踉とした足取りで道士のもとに歩み寄った。
「久しいな、友よ」
二人の詩人はこうして再開を果たした。
歴史には残らなかった
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