第17話 妖女任氏

 平城京や平安京が唐の都を模倣したのは世人の知るとおりだ。碁盤の目のように張り巡らされた条里制の町並みは、現在も京都の景観によすがを残す。

 

 しかし、丸っきり同じではない。

 

 長安は主要道路で囲われた一ブロックを、小さい外郭で囲っている。長安という城壁都市の中に、さらなる小さい囲いの居住区が、合計一一〇も詰め込まれているのだ。このひとブロックを坊とよび、東西南北に四つの坊門が築かれて、それを結ぶように十字の形の道がとおり、この十字の大路から、さらに路地へと枝分かれしている。


 市井の人々はこの坊で生活する。民家が建ち、仏寺や道観がそびえ、俥やロバなどをつかった振り売りが食材や日用品をまかなう。だがそれ以上を欲するなら両市に出向かなければならない。


 約一キロ四方の西市は、東市よりも賑わっていたらしい。外国商人の店舗も多く、ペルシャ人やアラブ人の商人も頻繁に軒を出していた。――真備はその西方人の片言唐言語を聞き取り、また簡単な言葉になおしながら耶蘇教の女性について聞き回った。


「こいつは厳しいかもしれんぞ」


 真備は袖で額の汗をぬぐった。

 商人の言語が拙いこともあるが、商人の入れ替わりが激しく、長安のかかえる人口が多いこともあって、人捜しを切り出すだけで、反応は芳しくない。


 西の甍から残照の色が染みだしてくると、流石に疲労がのし掛かり、空腹もこたえた。炉から香ばしい匂いを立ち上らせている胡人の商店にたちよって、胡餅を仲満の分もふくめ、ふたつ求めた。


「さて、どうしたものか」

 手に取った胡餅を口にしようとしたときだった。


 胡餅屋の脇からつづく小曲から女性の甲高い悲鳴がひびいた。


 弾かれたように路地をのぞくと白い帛服の女性が裾にまとわりつく影に怯えていた。面長で切れ長の眼をこのときばかりは皿のように見開いて、必死の形相で裾を噛むそれを引き剥がそうと悪戦苦闘している。


「誰か! 誰か! この犬畜生を追い払って!」


 女の顔は恐怖でひきゆがんでいるが、その裾をとらえているのは、生後半年もたっていない多毛種の子犬なのだ。


 女と子犬のひどく滑稽なきりきり舞いに、周囲の人々は珍奇な演目として笑っているが、寒山寺の悲劇を目撃している真備には、小さく、毛玉を丸めたような愛らしい多毛の犬だとしても、犬に追い立てられている人の姿など、一瞬たりとも見たくなかった。


「おい犬っころ。これでも食え」

 女の裾にしゃぶりつく犬にむかって、口にしかけていた胡餅を放り投げると、犬はその香ばしい胡餅の匂いを嗅ぎつけて、すぐさま獲物を女の服から胡餅にうつし、それを咥えて尻尾を振りながら機嫌良く去っていった。


 通行人たちも見世物が終わって、三々五々散らばっていき、肩で息をする女だけが残された。


「なんと御礼を申し上げたらよいのでしょうか。この感謝、言葉になりませぬ」

 眼に涙を目一杯ためた女は、いまだ恐怖に脚をもつらせながら、真備のもとにやってきた。夜叉のごとく髪を振り乱し、金切り声を上げて狂乱の極致にあった女は、落ち着いて話してみると、実に上品な佇まいで、楊貴妃という絶世の美女を見てなければ、年甲斐もなく舞い上がっていたかもしれないと思わせるほどだった。


「随分と犬がお嫌いのようですな」

「苦手など、そんなナマヤサシイものではありません。犬は粗野で粗雑。ぜいぜいと汚い息を吐き続けるところなど、ゾッとしますわ」


 乱れた髪を手櫛で梳きながら、憎々しげに言い捨てる。

 女は一通りの身繕いを終えると、すっぱりと先の悪夢を忘れて、後宮の姫のように嫣然と微笑んでみせた。


「こんな炉端じゃお構いも出来やしませんわ。旦那様、是非お屋敷にいらっしゃいな。心づくしの礼をしなければ、わたくしひとでなしですわ」


 女は腕をからめると、どこぞに引いていこうとする。

 真備は慌てて彼女をとめた。


「御婦人、気持ちだけで結構です。それに私には人捜しの用がありまして」

「女でしょう」

 牡丹のように堂々とした美しい振る舞いを魅せていた女が、一転して、妖しい色香を放ちだした。


「何故そう思う」

「矢張り、女でございますね」


 その女には有無を言わせぬ魔力があった。生まれながらに男を支配するように定められた蠱惑的な黒い瞳は、沈黙を破る魔眼のごとく、真備の口をわらせた。


「じつは耶蘇教の胡女を捜しておる」

「耶蘇? 景教ではなくて」

「異なる派閥なのだ。イエスなる男の磔刑像を崇め、礼拝には乳香と没薬をつかう。それとあまり唐人ウケのしない顔貌だときく」


「まあまあ。それは」

 女はくすりとした。「恩を返すには、あまりにも容易い」


「まことか!? もしや知り合いか」

「まさか。知りませんよ。いまのところ」

 そういって白磁のような指を一本立てた。


「お屋敷はいずこ? 一日足らずで拐かしますわ」

 女だてらに物騒なことをいう。

 真備は冗談だと笑殺しようとしたが、口端が引き攣った。

 この女には凄味がある。やるというなら、必ずやる。


「いや結構。長楽駅に書簡をくだされ。日本人の泊まる宿なら、すぐに分かろう」

「アラ、それは残念。腕の見せ所だったのに。――よろしいでしょう。それならば、半日もかかりません。とおく長安より登鼓が鳴り始めるころには届いているでしょう」


 女はそう言い残して、早々に去ろうとしたので、真備はあわてて呼び止めた。


「私は貴女の名前を知らない。私は誰に感謝すれば良い?」

「これは失礼しました」


 女はそう言いながらも振り返らなかった。

 まるで顔には、人に見せられない吻部や牙でもあるかのように。

「妾は任氏じんしです。輩行は二十番でございます」


 そういうと、物陰から驢馬を引いた女官が現れ、彼女をのせて彼方に去っていった。


 

 真備はこの後、長安で妙な噂話を聞くことになる。

 市に張十五娘という、衣服を商う女がいた。白皙の美女で多くの者から言い寄られていたが、あるとき、神隠しのように姿を眩ませた。数ヶ月後、女は帰ってきたが、じっと黙ったまま、居なくなったときの話しを頑なにしなかったという。


 またこんな話しもある。

 年のころは二十八の女盛りで、笙が上手な妓がいた。とある将軍が寵愛する奴隷だったが、あるとき病にかかり、巫女にみせたところ、とある方角の屋敷に泊まり、療養すべきだと述べた。吉兆の方角にある屋敷の女主人に頼み込み、休ませると、病気は治ったが、女は身ごもった。しかし女は頑なに相手の名前をいわず、母親は恐ろしくなって、すぐに懐胎した娘とともにそこから逃げ去ったという。


 ――実はこのふたつの奇怪な事件の裏にいた女こそ、任氏であり、恩のある韋金いきんという男に女を斡旋していたことが、韋金と交友のあったしんせいづてに、後の世に明かされる。


 そして彼女の犯罪録とも呼べるものが、一篇の伝奇として歴史に残った。

 彼女の名前は妖女ようじょ任氏じんしとして今も尚、語り継がれている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る