第16話 虫下しの念珠

「我々ではないでしょう」

 大秦景教の伝教師は静かにそう告げた。

 お為ごかしの返答ではない。有無も言わせぬ断言だった。


 対面には、ヒゲをつるりと剃り上げた、黒染めの衣をきた三十すぎの胡人が、手を組んで、自若とした表情で構えている。深い眼窩にはめ込まれた二つの碧玉は、楊貴妃の名前を省いたとはいえ、脅迫事件のあらましをきいても、烏めいた無機質な眼色を変えない。


「なぜそう断言できる。紙片に香が移ることはあるだろう」


 仲満は唐の延臣として高圧的に詰問するが、伝教師は穏やかに首を横に振る。

「単純な話しです。ここ数年、礼拝で乳香の使用を禁じている」

「なぜだ?」

「すべては伝教のためです」


 伝教師は自分の服を指さした。彼は黒衣の上に黄土色の袈裟をかけていた。


「人は珍しい物を有り難がりますが、それは愛玩に過ぎません。まして変化を促そうとするものは、そうじて拒絶される。我々は多くの異教徒がどのような振る舞いをみせ、ときに憎悪を向けるか知っている。――なにより教祖たる主イエスがその生涯をもって教化の苦難を示しました」


 胡人とは思えないほど流暢な現地言語でいう。


「ですから我々は悟ったのです。教えは純粋で無ければならないが、けっして純血である必要はない、と。たとえるなら今の長安がそうでしょう。国威をとどろかるため血肉に異なるものをまぜている。ゆえに我々もここ数十年では、主の座のとなりに天子をたて、孝道を重んじる教義を付け足した。すべては主イエスの福音を伝えるため。この服もその一環であり、また香の取扱もそのためなのです」


「なぜ、それが香につながる」

「唐の人々は、乳香を神の香ではなく、傷薬として見るのですよ」


 乳香の傷薬としての歴史は古い。イエスと同じ時期にローマで活躍した医者のケルススも、その著書『医学論』で乳香の創傷治療の優れた薬効を語っている。


 シルクロードの交易品として、すでに唐にわたっていた乳香は、いまだ香を焚くという豪勢な使い方よりも、生活に根ざした傷薬として親しまれていた。


「虫下しの丸薬では数珠玉はつくれん、ということか」

「御明察」

 伝教師はうなずく。「いまの玄宗皇帝は寛大故に我々の伝教を保護して下さる。おかげで信徒は増えつづけ、神の教えはこの広大な唐にも波及している。この機を逃すわけにはいかないのです。まして近年は兵士にとられる人民も多いと聞く。傷薬としての需要は高く、乳香は更に神の香から遠ざかっている。だからこそ、躓きをあたえる石ころは極力取り除いておきたいのです」




「こいつは困ったな、真備」

「まさか出鼻を挫かれるとは」

 大秦寺を出た二人は途方に暮れた。こうも完膚なきまでの反証を突きつけられたら、納得せざるをえない。つまり捜査域はふたたびこの国全土となり、無限とも思える人間が容疑者となる。


「だが、目の付け所は良いと思う」

 仲満は難問を前に顎をなでる。「東西両市の胡商を介せば、すぐに乳香や没薬など手に入るが、そのふたつの香を紙片に染みこむまで焚く者など、そう多くない。的は必ずしも外れていないはずなのだ」


 真備も同意見ではあったが、景教ではないとすると、まったくその人物の見当がつかない。ふたりでうんうんと煩悶しながら義寧坊の東門を抜けようとしたとき、うしろから若い僧侶が走ってきた。


「大秦寺の小坊主じゃないか?」

 仲満が目を細める。駈けてくる小沙弥は伝教師とおなじ胡人であった。果たせるかな、少年は景勝けいしょう――伝教師の小間使いだった。


「景勝神父が仰るには、西方の耶蘇教が流れ着いていると」


 耶蘇教とは、ラテン語の『イエス』を中国語の音韻に当てはめた読み方で、キリスト教の総称である。


「西方? 別の流派か」

 真備が馬上から尋ねると、小坊主はこくりとうなずく。

「以前、見たのです。主イエスの聖像を抱いている女を」


 どこか釈然としていない二人に対して、小坊主は景教の成り立ちを講釈した。


 四世紀、キリスト教者は教義の統一を図った。争点は「父と子と聖霊」の解釈の揺れで、一神教という厳然たる命題があるキリスト教者にとって、父(主)と子(イエス)と聖霊という、超越的存在が三人いることは頭痛の種であった。


 喧々諤々の討論の末、「父と子と聖霊」は三つの位相(ペルソナ)をもった本質的にはひとつの存在であるという「三位一体説」を支持することに決まり、それに異議を唱え、イエスの神性を否定した教派は異端とされた。


 景教とは、異端の烙印を捺されたネストリウス派が、唐にながれて定着した一派である。そのため神としないイエスを偶像として肌身離さずもっていた女は、イエスを神の一側面として信奉している、いわば『正統』の信者であるという。


「彼女を見かけたのはいつだ?」

「中元――七月中旬の頃、西市で」


 脅迫状が華清宮に置かれたのは七月下旬。時期は合う。

「容貌は?」

 と聞くと、小坊主は意地の悪い顔をした。


「眼が深くに落ち込んで、鼻筋がいやに高い、醜女だった」

 真備は子どもの歯に衣着せぬ物言いに眉をしかめた。


 今あげた特徴は大抵の胡人に共通するものだ。唐に馴染んでいるとはいえ、価値観さえ感化され、みずからの血統の特徴を醜怪と罵る子どもに、空恐ろしいものをみるようだった。


「これはせめてもの礼だ」

 追い払うように銅銭を投げ渡すと、胡人の小坊主は拱手の真似をして、来た道を駆け戻っていく。するとちょうど正午をつげる太鼓の音が轟いた。


 この時の音とともに、長安の両市は営業を開始する。


 新たなる手掛かりを祝う太鼓の音を聞きながら、ふたりは西市にむかった。

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