第15話 真備たち長安へ

「なるほど大秦だいしん景教けいきょうか」

 馬の背に揺られながら、仲満は感心しきりだった。ふたりはさっそく驪山を越えて、広大な関中平野から、とおく長安の城壁を眼下におさめていた。


「しかし、よく憶えていたものだ。もう二十年も前のことだろう」

「香りもさることながら、景教の伝説を憶えていたのだよ」


 真備は得意げにいう。景教というのは、ペルシャより流れ着いたキリスト教の一派で、宗教会議で異端視されたネストリウス派の一派である。彼等は説話じみた『聖書』という教典を持っていたが、その中の教祖となったナザレのイエスの誕生譚に、彼が生まれ出でる前夜、うまやで寝ていた聖母マリアのもとに、東方より三人の博士がやってきて、三者三様の贈り物をしたという伝説がある。


 三賢者の贈り物のひとつは黄金。

 そして没薬と乳香である。


 景教は聖なる香りとして、この甘美なエスニック香を好んで焚いていた。真備はそれを思いだしたのである。


「やはり俺が推挙しただけある」

「仲満、この件、すべて承知の上で謀ったな?」

「無論、お前がこの謎に目の色を変えることまで」仲満は気取ったようにチッチッチと小刻みに舌を鳴らした。「しかし腹を立てるならお門違いだぞ。こうでもしなければ、伝戒師の招聘は不可能だった。なればこそ天子の影である高力士殿に恩を売っておくのだ。彼ならば見事に天子の許しを得て、堂々と鑑真和上を日本に迎え入れられるだろう。どれもこれもお前達のことを考えてのことだ」


「相変わらず、口が達者だな。昔もお前の口車に乗って、どれだけ大変な目に遭ったか」

「お前とて、自分は月に酔う銀蠅だと曰って、利益など度外視に、市井の問題に首を突っ込んでは、奔走していたではないか」


「はて、そんなことなどあったかな?」

「昔から自分のことになると韜晦が下手だな」仲満は雲さえ突き抜けるほど呵々と笑った「なに、それに久しぶりにお前と二人で、長安を掻き回してやりたいのさ」


 共に唐にわたり、やがて別々の国で官吏となったふたりは、久闊を叙するのに仰々しい挨拶は必要なかった。ただこうして轡をならべるだけで、心根はいまだ黒々とした豊かな髪の頃に戻っていく。


 彼等は官道を下って、長楽ちょうらくえきについた。


 駅というが丘陵地に広がった宿場で、ここから西七里に碁盤のごとき長安が広がっている。彼等は長楽駅に一泊すると、払暁を待って出発した。


 長安は、近づくにつれて、ダムの導流壁を見上げるような高き外郭が迫ってくる。


 関中平野に隆起した高さ八メートルの羅城は、圧倒的な横幅と中を伺わせない高さをもって、数々の外交使節に畏怖の念を抱かせただろう。まして東西を約九・七キロ塞ぎ、南北を八・六キロも囲う、この巨大な正方形の外郭城は、のちに長安をもした平安京を、三つと更に半分を収められるほどの敷地面積をかこっている。


 羅城には三つ、大きな門が、さながら採掘抗のように掘られている。ふたりはそのうち北東にある通化門に馬首をむけた。


 外郭の洞を通り抜けると、当世もっとも栄えた国際都市が出迎える。


 騎乗した漢服の官吏が、名残惜しく街を振り仰いで地方に赴任していく傍らで、紫髯しぜん緑眼りょくがんの胡人が積荷を背負った駱駝の手綱をひいて西市にいそいそと出向き、唐廷の儀仗に出迎えられた渤海の使節が皇城の官吏街にむかい、旗亭から出てきた若い進士が路上でくたばって鼾声かんせい雷のごとく眠ってしまう。


 歴史の重厚さと古拙味ある美しさだけではない、雑然美というような魅力は、極彩色をまとった町並みや眉にせまるような雁塔や高楼といった、多種多様な文化を併呑した長安なればこそだった。


 黄瓦丹墀おうれんたんちの色彩に眼を奪われ、草花も瞬く間に紅塵にまみれる街の賑わいに、年甲斐もなくはしゃぎたくなる気持ちもないではないが、自分に課せられた任務をつよく思い起こした真備は、大路を西に、義寧坊へとむかう。


 そこには唐代一の景教寺院である大秦寺が聳えている。

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