第14話 東夷の翁
茘枝の件から脅迫の意図を読み取っていた真備も、こうしてあからさまな脅迫状を提示されると、目を見開かざるを得なかった。控えていた童女づてに脅迫状をうけとると、ふわりと甘ったるい香りがした。匂いのもとを探るように紙面に目をおとせば、そこには流麗な筆致で、醜怪な感情を詠う、短い詩文が綴られていた。
『君見ずや華清の
「七月下旬の頃です。通例となった十月の湯治の準備として、下男下女が華清宮を掃き清めるのですが、それを見計らったように、この端正楼にそれが」
「貴公の推察は正鵠を得ていたのだ」
高力士がいう。「掏摸が茘枝を盗んだのが七月初旬として、脅迫者がそれに気づき、失敗を挽回すべく脅迫状をしたためたとするなら、時期としても辻褄があう」
楊貴妃と高力士は、この異国の老人に手応えを覚えたようだが、当の本人は白鬚を撫でながら眉間に皺をよせていた。
「自ら疑問を呈するのは、お恥ずかしい限りですが、なぜ賊は貴妃を脅迫するのでしょうか。死をのぞみ、手に掛けたいのなら、むしろ警戒させる脅迫は愚策。まして何か要求している訳でもない」
「それなのだ。貴公に頼みたいのは」
高力士は膝をむけた。「こちらも脅迫状の意図を読みかねておる。もしや雑密や厭魅の類いかとも考えたが、貴公の推察を聞く限り、やはり賊は『脅迫すること』に重きをおいておる。まして今まで日夜警戒しているが、お命を狙われている痕跡はなく、不審者の影すらない」
「わたくしからも、切にお頼みします。決してわが身可愛さに申しているのではありません。偏に天子様の憂いの種を除いておきたい。その一心です」
「玄宗皇帝のお耳には?」
「儂で止めておる」高力士はツルリとした顎を撫でる。「
「私がですか」
真備は、いつの間にか重責を背負わされていることに狼狽した。たしかに楊貴妃は憐れに思う。だが遣唐使とは名ばかりの死の配流に見舞われ、いつ老骨が朽ちるとも分からない身の上で、更に皇帝の愛姫を狙う賊の目星をつけろという。
――出来かねる。真備は青白い顔で呻いた。唐という大陸から一人の容疑者を見つけ出すことなど、平城京から一匹の蝗をつまみ出すようなものである。すぐに辞退しようとした矢先、高力士はいやらしく目を細めた。
「聞くによると、貴公は仏教の伝戒師をさがしているとか」
「よく、ご存じで」
「いやなに、
のちに日本に戒律をもたらし、日本仏教の礎となった唐僧の名を、真備はこのとき始めて耳にした。彼は以前より律宗の若き僧侶が、広大な唐で、日本にふさわしい伝戒師を探し求めていることは勿論知っていたが、そのような大人物を担ぎ出してくるとは思いもしなかった。
まるで経典をもとめて天竺を目指した三蔵法師のごとき熱意に、老いた真備の心にも胸打つものがあった。
「しかし残念であるな」高力士の片えくぼには、冷ややかな笑みが結ばれている。「かの者の招聘は叶わない」
「な、なにゆえに?」
「
「それは・・・・・・」
「無論出来ぬはず。我が国の律令を犯し、我が大家(だんなさま)の面子を汚せば、それが干戈を鳴らす合図じゃ。白村江では取り逃がしたが、今度は海をわたり、汝の国で我が兵子の喊声を聴くことになるであろう」
この迂遠なる脅迫は、情においても理においても呑むしかないと思わせた。
しかし広大な異国において、何の権能もないひとりの老人が、如何にして容疑者を探し出せるというのか。
出来ない。が、断るすべもない。
彼はただ唯々諾々とこの無理難題を承るしかない。そして日本では伝戒師を招けなかった無能として、唐では愚かな道化として史書に名を刻まれるだろう。
痛ましく、残酷な仕打ちだ。
楊貴妃など、自らの懇願とはいえ、異境の老人に重責を担わせたことに幾許かの良心の呵責を覚えていた。それが高力士をためつほど大きくならないのは、真備のとなりに義兄弟のように侍していながら、一向に顔色をかえず、むしろわずかに口角を吊りあげて、不敵に微笑んでいる仲満の存在だった。
ともすれば、貴妃は真備をこの場に引き出した仲満に、共犯めいた意識さえ感じていたというのに、彼は暗闇のなかに灯火をみるように穏やかなのだ。
何故だろうか。そう愁眉をよせる彼女の顔が、ふと羽虫が掠めたように歪みをおぼえたあと、如何なる幻術を用いたのか、しだいに紅潮して、魔風に誘われるように前のめりになった。
彼女の双眸は過たずに見て取ったのだ。権威をふりかざす宦官を前に、憂悶に囚われているはずの老人の背中から、灰の中の埋火のように、微かに狼煙をあげる意志の火焔を。
――やらねばならぬ。
そう呟いた内なる声は、不思議と熱を帯びていた。
政敵の企みによって異域の地に配流され、生き甲斐ばかりか死に甲斐さえ奪われた彼にとって、名誉などあの世に持ち越す銭のようなものだ。六文銭程度の駄賃さえあればよく、それより生き甲斐なく朽ち果てるぐらいなら、破れかぶれであっても使命に身を焦がして死に甲斐を得たかった。彼は今、死に場所を得たのだ。
彼の腹に鉛のごとき覚悟が備わっていく――。
首を上げた白髪の翁の顔貌をみて、仄暗い優越感を満たさんとしていた高力士は頬を叩かれるほど驚愕した。そこにあったのは『国家』というあまりにも強大なものを背負わされた老人の面差しでは決してなかった。
「賊を捜すならば、情報がいります」声は魂の排熱をするかのよう気炎を纏っていた。「ついてはほかに知り得たことはありませぬか?些細なことでも良いのです。なにか」
「それならひとつ」
楊貴妃は円い眼を期待でかがやかせた。
「はじめて開いたとき、筥から仄かに甘い匂いがしました」
「匂いですか」
「どうやら、脅迫状に焚きしめた匂いが柳筥(やないばこ)に移ったのでしょう。匂いに憶えがあったので、身辺の者と熟考した末、ふたつの香に絞れました。ひとつは没薬。もうひとつは乳香」
「没薬と乳香・・・・・・」
沈香や欄奢はよく焚かれるが、没薬や乳香は稀である。しかしながら、真備は以前、何かの折りに、それらの香をむせるほど嗅いだ憶えがあった。
日本ではない。奈良の御代、香を嗜むのは極めて特権的な貴族のみである。
だとすれば唐。ながく逗留していた長安に他ならないが――。
そのとき、覚束ない記憶が騒ぐのを感じた。焚きしめている人々の特徴的な人相が、彼の脳裡を駆け抜けた。真備の顔色が確信にそまると、楊貴妃は、稚児のように前のめりになって尋ねた。
「なにか、思いつきましたね」
「はい。間違いありません」
真備は完爾と笑い、首を縦にふった。
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