第13話 ふたつの脅迫

 端正楼は外郭の奥まった北東の一郭に高々と甍をそらせていた。


 ここは湯に当たった楊貴妃が髪を櫛いだり、化粧を施したりする一大フィッティングルームで、行きかう者も女官ばかりの後宮というべき女の園であった。


「普通なら、宦官でも眉をひそめられるところだ」


 特別に踏み入れることが許されて、五歳と年のかわらない仲満はひどく機嫌がいい。自分の年齢をさっ引いて、数えで五十三歳。還暦の影がちかづいて、顔にも皺が増えて、筋肉と脂肪が入れ替わって久しいが、生来のハッキリとした目鼻立ちと外交的な性格が爽やかな面差しとあわさって、いずれの人にも好感が持たれる男だった。


 彼と交流があった詩家の儲光義ちょうこうぎが、詩のなかで仲満の二十代の頃の容貌を「美無度(びだんし)」と描写している。詩文上の誇張であったとしても、表現として採用するぐらいには容姿に優れたところがあったのだろう。


「それで用談というのは?」

「うむ」仲満はいまだ黒々とした髭をなでた。「先んじて先ほどのことについて語ろう」


「李林甫が貴妃を狙う理由か」

 仲満は首肯する。

「とはいえ、なにも小難しいものではない。宰相李林甫にとって、天子の妻となった貴妃の一族郎党が邪魔であるという、何処にでもある派閥争いよ」


「外戚か」

 真備にとって、これほど身近な話もあるまい。


 外戚とは、王の妃や母方の一族のことで、国という枠組が生じた頃から、影に日向に国政に嘴を入れ、政治暗闘の火種になることは枚挙に暇はない。


 日本の藤原氏が最たる例だろう。天皇の血筋に光明子という藤原の血をまぜた皇太子を即位させたことで、藤原氏は以前より更に政治での発言権を得た。孝謙帝を御輿にかついだ藤原家が、他者を排斥し、自分の血統を根のように伸ばし、他氏の膏血をしぼる。


 李林甫も又、外戚の楊家におされ、病にも蝕まれつつも、今年、楊家の出世頭である楊国忠ようこくちゅう剣南けんなん節度使せつどしとして四川しせんに追いやったことで、一矢報いている。しかし命は風前の灯火であり、いまだ楊家の影響力は無視できない。故に生涯最後の大悪事として、楊貴妃に凶刃を向けるかもしれないというのが、もっぱらの噂だった。


 耳馴染みのある暗闘の幕内を聞かされて、鉛を呑んだように重々しい気持ちになった真備は、先行く仲満が急にピタリと止まり、居住まいを正したのに気づいた。


 彼は楼の戸口で待っていた黒染めの帛服の宦官に、深々と礼の姿勢をとっていた。


驃騎ひょうき大将軍。この者が吉備真備で御座います」


 真備も慌てて首を垂れた。青柳の木陰で涼むような待っていた高力士は、黒衣の裡にすべての感情を包んだ梟のように、まったくの無表情だった。齢六十を、二、三すぎた影の宰相は、そのつるりとした顎を戸口にむけると、流れるように楼に入っていった。


「俺たちもゆこう」

 仲満に誘われるままに端正楼に入り、御簾のたれた部屋の前で待たされた。


娘子おくさま、高力士でございます」

 御簾の奥に呼びかける声は、真備を吃驚させるほど、好々爺然としたものだった。しかし、それにも増して驚かされたのは、「どうぞ」と返答した女の声が、まるで銀鈴を振るうような美しい声だったことだ。


「日いずる国より、よくぞいらした」


 高力士につづいて居室に入り、その高貴なる女性が微笑みかけたとき、真備はその姿に観世音菩薩の面影をみた。


 緋布をかけた椅子に嫣然と座り、たおやかな黒髪を高鬘にまとめ、唇はぷっくりと厚みがあって、目はすっきりとした理智の輝きをはなつ。


 肩にかけた蒼い衣は羽化したての蝉の透き通った羽根のようで、肢体は乳房から腹部にかけて官能的な線がながれ、腰元から裾まで、開花をまつ百合のつぼみの如く、官能をためている。およそ半裸にちかく、一見して扇情的な御姿だが、真備には蓮華の台座に坐する生き観音のようにおもえた。


「名を告げなされ」

 楊貴妃の美貌にあてられた人を幾度となく目の当たりにしているからか、高力士の苦言も心なしか穏やかだった。真備は、白昼夢めいた美しさの当惑から醒めると、慌ててひざまずき、深々と頭を垂れた。


「日本より朝貢使節としてやって参りました。吉備真備と申します」

「噂には聞いております。なんでも天に消える縄伎の術を破り、見事寒山寺に隠された財宝をみつけたとか」

「掏摸が馬脚を現しただけのこと。貴妃もその場にいらしたなら、すぐにでも真相を看破されたでしょう」

「そうでしょうか。わたくしには無理だと思います」

「御謙遜を」

「いいえ不可能です」


 そういって楊貴妃はおだやかに微笑む。


「わたくしの一挙手一投足は天子に奉じるもの。蘇州の寒山寺で梵鐘の音を聞くなど、一生に一度もありますまい」


 籠の中の鳥を自認する彼女は、しかし憂いに顔をひそめてはいない。ただ明確な事実を確認したに過ぎない。


「それにも拘わらず、わたくしを憎む者がいるようです」

「恐ろしいことです」

「盗まれた茘枝は、確かにわたくしに贈られる献上品でした。事前に送り主が書状をしたためて、広州より茘枝を二貫(約七・五キロ)献上したいとありました」


「その者の調べはつけておる」

 と、高力士が口をはさむ。


「およそ人間が本音を言わざるを得ない程度に痛めつけたが、一切犯行を仄めかすものはなかった。おそらく賊は別にいて、駅舎のいずれかで馬を交換するわずかな瞬間を狙って、毒の茘枝を紛れ込ませたのだろう。ついては広州から蘇州までの駅舎を調査して――」


「爺や」

 楊貴妃は高力士の言葉を制して、視線で示唆した。


 そこには東夷の老官が静かに思索の淵を散策していた。


「マキビ、なにか考えがありますか?」

「これは申し訳ありません。少しばかり思案に耽っておりました」

「何を悩んでいたのです」


「これは老人の他愛のない思いつきでありますが」真備は思案の癖として、白鬚をゆっくりしごく。「賊は、貴妃を殺すつもりはなかったのでは?」


「どういうことでしょう」 

 楊貴妃は身を乗り出した。「賊がわたくしを殺すつもりがないというのは」


「毒の入れた茘枝を荷に滑り込ませたとして、贈られてきた茘枝は二貫。それを広州から運ぶわけですから、早馬を乗り継いだとしても四、五日かかりましょう。茘枝は傷みやすく、時間とともに味も香りも失われると聞き及んでいます。そうなると、如何に貴妃が大食漢であっても、腐る前にすべて食べきることなど出来ません」


「では、二貫分の茘枝すべてに毒を盛ればどうです?」


「時間がかかりすぎます」

 真備は首を横に振る。「時間がかかれば痛みがすすみ、痛んだ個体が多ければ、貴妃の御膳にあがるまえに処分してしまう」


「ではマキビよ。賊は何の為に、わたくしの献上品に毒を盛ったのです?」

「おそらく」真備は白鬚をひねる。「脅しかと」


「毒殺ではなく、脅しですか?」

「誰かの口に入ればよかったのです。そこで誰か死んだり、苦しみ悶えれば、狼煙のごとく噂がたつ。貴妃宛ての茘枝に毒が入っていた。何者かが娘子を殺すつもりだったのだ、と。――つまり毒入り茘枝は貴妃を殺すためではなく、偏に貴妃を脅かすこと、そのものが目的ではないでしょうか」


 真備の推察は、彼の想像より大きく響いたらしかった。妃と宦官は目で意思の疎通を終えると、高力士が女官をひとり捕まえて「アレをもってきなさい」と命じた。


 しばらくして、幼い童女が一抱えある柳筥やないばこをもってきた。

 楊貴妃はそれを膝の上におくと、真備に真剣な眼差しをむけた。


「マキビの慧眼、大いに感服しました。ついては見てもらいたいものがあります」

 白魚のような細指が、小箱から一枚の紙片をとりだした。


「それは?」


「貴公の言説の正しさを示すものであり――」

 眉をひそめた楊貴妃がいう。「もうひとつの脅迫状です」

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