第2章 文選
第12話 目下の容疑者
「この国に
『江談抄』 第三 雑事 吉備入唐の間の事
一
外交官として働く上で、読解力や傾聴力、説明能力や外国知識など、求められる能力は今も昔も変わらないが、こと遣唐使に限っていえば、そこに三半規管のつよさが含まれる。
それというのも、当時の中国大陸の一大交通手段は船だった。
中国大陸には東から西へ、黄河と長江という大運河が流れている。この感情の赴くままに線をひいたような二つの運河は、河川域の人々に沃地を与えただけでなく、自然と基幹道路も担った。
隋の皇帝煬帝は、この天然自然の巨大交通網に、南北に交わる人工の運河をかけたが、この支出のために、急速に民衆の支持をうしない、高句麗征伐の度重なる失敗もあって、大小二〇〇をこす反乱が全土にとめどなく起こり、ついには滅びてしまった。
この隋の遺構をつかい、遣唐使は二箇月から三箇月をかけて長安へ向かう。
悠長な旅路のようにも思えるが、実際はかなり気忙しい。
遣唐使には来京の期限があり、正月におこなわれる元日朝賀に出席するため、到着時の式典や朝賀の準備も加味して、十二月の中旬には都に到着しなければならない。おおかた逗留地に来京の下達がとどくのが、九、十月頃であるから、気は急いて仕方ない。
しかしながら、真備たちは、その忙しなさとは無縁だった。
来京の許可の詔が、八月中旬には蘇州に届いたのだ。
これは異例の速さである。七月初旬に伝馬が蘇州をでて、長安につくまで凡そ半月。それから処理されるのに通常二箇月をみるべきなのに、八月中旬には返書が届いているから、優先的に処理されたと見るべきだろう。
その原因と目される人物はいま、
旧暦の十月初旬。
秋風のふく空高い秋晴れのもと、黒い駿馬に跨がり、真備は長安街道を西進していた。
彼のふところには上質な
『寒山寺の秘事について聴取す。単身、
封書にはこう記されていた。封印は切り放ち封で、書状の一端を切り離さないように縦に細く裂き、別紙を細く裂いて紙紐をつくり、これを書状に巻き付けて、その上から『封』と書く。来京の許諾書も同じような封印だったが、この書状は『封』のかわりに『備宛』とある。
『
「おお! 仲満」
真備は懐かしい名前に喜悦した。
阿倍仲満とは唐人風に改めた名前で、本名は阿倍仲麻呂といった。
彼は真備とおなじ霊亀遣唐使として唐にわたると、太学寮に入学し、推挙をうけて唐の官吏の道に進んだ。彼は当初、真備とともに帰国する腹づもりだったが、その才子ぶりをかわれて玄宗から帰国を許されなかった。
そんな彼と惜別の盃を交わしたのが十八年前。
或いはふたたび会えるのではないかと期待していたが、まさかこのような端緒から再開の目途が立とうとは思いも寄らなかった。
――だが、なぜ驪山に?
指定されたのは、長安から東に約二十五キロ、熱水泉が湧くことから、後周の時代から保養地として知られる山だった。
たしかに唐の
密会に適した場所などいくらでもあるだろうにと行き道で度々怪しんだ真備だったが、驪山の由来となった黒馬のたてがみのような山容が近づいてくると、その疑問は一蹴された。
そこには、もうもうと湯けむりたつ一大城下があったのだ。
北の津陽門をくぐると、孟宗竹のごとく乱立する高楼に、百家をうめつくす酒宴をしめす幔幕が広がり、湯の熱とその酒気に酔って、いまだ鮮やかに咲き狂う花壇と、どこからか絶えず流れてくる雅やかな音律は仙桃境と見紛うばかりだ。
――はたして、ここがあの驪山か?
と、まるで昔馴染んだ田舎が見ない間にビル群に一変したような驚きに打たれる真備だが、実はこの温泉宮、彼が帰朝した十三年後に、玄宗が大幅に拡大したもので
『新唐書』地理志には『山ヲ
都会に圧倒される椋鳥のように左見右見していると、大路の向こうから、紅塵をあげてやってくる一団に逢着した。
大勢の従者を引き連れているのは、たった一台の馬車で、子どもの背丈ほどある車輪に様々な紋様を刻んで、天蓋を黒絹で飾っている。沿道の人々は、農民や官吏はへだてなく平伏しきりで、夜を同伴しているかのように、騒がしかった放歌呻吟の声も悉く消えて、その懼れ方もただ事ではない。真備も周囲にあわせて下馬すると、頭を垂れて行き過ぎるのを待った。
しかし馬車は、ぴたりと真備の前でとまった。
「・・・・・・
ひとりごちる声がした。
声は老いて、平坦だが、舌鋒の切れ味を試すような剣呑さがある。
「怪といえばその服もそうだ。まるで蕃夷の服装」
「おもてをあげい!!」
武装した
真備は顔を上げ、馬車の貴人と目があった。
馬車の
「貴公、生国は」
「日本でございます」
「ほう」
と、言うくせに声に驚きがない。判を捺すように一様である。
「なにゆえ東夷の蕃客が華清宮に」
真備は答えに窮した。そもそも詳しいことは本人も知らない。ただ一筆「来い」とだけあった。内容は毒茘枝の聴取だろう。だが衆目の場で披瀝していい話ではない。まして俥の人物を真備は何一つ知らない。
左遷されたとはいえ、奈良の都の政治暗闘を長いあいだくぐりぬけてきた彼は、迂闊な物言いが祟る場面を幾度とみてきた。直観が真備に沈黙を強いた。
「貴様、宰相様が訊いておられるのだぞ」
「東夷の翁、喋る言葉も忘れたか!」
「なんとか言え。うすら莫迦が!」
脇を包んでいた従者が口々に罵倒しても、真備は石のように口を閉じた。あまりの強情っぷりに、ひとりが痺れをきらせて、佩刀した太刀をぬいてみせた。
「これでも喋れぬか、翁」
真備はそれでも押し黙る。
突きつけられた刃の先には、もっと恐ろしい宰相の目が、息を潜めて待っている。
「ええい。業突く張りな爺め。命を捨てるか!」
「待てッ!!」
突如、太刀を振り上げた従者にむかって、ぴしゃり鞭打つような一喝がとんだ。
真備はその声を聞き逃さなかった。吊りこまれるように振り仰ぎ、歓喜に目を緩ませながら、ゆるやかな坂からおりていくる馬上の男を呼んだ。
「
「太刀を下ろされよ。その者は客人である!」
「客?」
李林甫の眉が怪訝そうに顰める。
「
「・・・・・・ほう。高力士殿の」
従者が太刀を抜いたことなど見もしなかったように、李林甫は平生喋るような声色でいって、視線を真備に移した。
とたん、体中の筋骨が万力で絞られるような、耐え難い恐怖の風に吹かれた。
老いた蛙を睨みつける
「将軍にお伝え願いたい」咽頭の粘膜を削るような空咳が落ち着くと、李林甫は呪詛ぶくように仲満に言う。「最近、日本人と何やら企てている御様子ですが、足元をおろそかにすれば、いずれ身を滅ぼしますぞ、と」
李林甫はそういって、馭者に「出せ」と命じた。
彼が去ってもしばらくは、急に縄を解かれた虜囚の如く呆然としていた。車馬が過ぎ去り、大路に人の喧騒が戻ってくると、ようやく自分が生き長らえたのだと知った。
「よく李林甫に漏らさなかったな」
仲満は下馬して、健闘を讃えるように肩を叩く。
「寒山寺の茘枝のことか」
「高力士殿も、お前の態度を知れば、決意を新たにしよう」
「決意だと?」
真備は藪から蛇の赤い舌をみた。
「なぜ私を驪山に呼んだのだ、仲満。まずその説明からしてくれ」
「むろん、そのつもりだが、それはあらためて
「ふたり?」
仲満は頷く。
「まずは
彼はちょっとばかり真備に近寄り、声をひそめた。「皇帝の勘案する書類は、すべて事前に彼の目を通らなければならないという暗黙の了解がある。それ故、官僚たちは公然と『影の宰相』と呼んで畏怖しておる」
「影の宰相・・・・・・」
「そうしてもうひとりが、さきほど馬車でお前を睨めつけた男だ。名を
唾棄するように言うが、名を口にするだけで舌を灼かれるかのように口元が恐怖にひき歪んでいた。
「高力士殿が皇帝の背に付き従う影なら、李林甫は頭上で垂れこめる暗雲だ。宰相になるだけあって政治判断は極めて優れているが、それ以上に冷酷で他者を陥れることに躊躇いがない。有能な官僚は奴の手によって悉く追放され、残った官吏は、やつの讒言をおそれて阿るばかりだ。そのくせ、天子には下男のごとく、何かにつけて推し量り、いまや天子の信は高力士殿と同等、いや、それを凌ぐともかぎらない。そして、なによりあの男こそ――」
仲満はふたたび声をおとして、そっと耳打ちをした。
「楊貴妃を殺す理由のある、もっとも疑わしい男なのだ」
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