第11話 暗闘の巷へ
長安の
男は壮年の苦み走った容貌で、挙措において非の打ち所がなく、拱手する姿も様になっている。
「
たずねてきた朝衡に対して、迎えた老宦官は、簡素な飾り気のない黒い帛服をきこみ、傍から見れば従者のようである。その宦官が手をこまねいた。
「内密なことである。もそっと寄れ」
「は」
朝衡は宦官のもとに近づくと、ふたたび首をたれた。
「
「勿論でございます」
返答は短く、余計なことは言わない。
黒衣の宦官が朝衡をひそかに重用する理由はここにある。
「じつに不届きな奴で、茘枝の件では飽き足らず、今度は華清宮の寝室に脅迫状を残していった。娘子はひどく怯えていらっしゃる」
「左様で」
「そこでじゃ。おまえにひとつ、犯人の目星をつけてもらいたい」
――目星か。
朝衡は平伏したまま、眼前の宦官の意図をさぐった。捕縛せよというのではなく、犯人の見当をつけるだけでいいという。
――おそらく
が、表立って騒ぎたくないのだ。首謀者を告発すれば、彼がつねに心砕いている政権の均衡が崩れるのを恐れている。影の宰相とうたわれる高士力は、それを望んでいない。
――形になる確証だけをもってこい、ということか。
朝衡はわずかに逡巡した。しかし時間にして数秒のことだ。
「かしこまりました」
「うむ」
高力士はそれだけいうと、椅子に深くもたれた。
引き際であろう。朝衡は一礼してその場を立つ。だが珍しく高力士が呼び止めた。
「そういえば、蘇州から面白い話が舞い込んできた」
「面白い、ですか?」
この黒衣の宦官は、玄宗とその妃たる楊貴妃には好々爺然とした笑顔をふりまくが、それ以外には彫像のように顔色ひとつ変えない。その男の口から『面白い』という怪なる言葉が出来したことは、ひとつの事件である。
「先日の茘枝の件、よくよく訊けば、それを見つけ出すに至った経緯もさることながら、それを嗅ぎつけた人物も面白い」
「寒山寺の僧では?」
「いや違う」
高力士は口端をかすかに上げた。
「お前と同じよ」
「日本の遣唐使でありますか!?」
朝衡の声が上擦った。
「しかも貴公と同じ元留学生だったときく。名はたしか、キビ」
「おお!!」
朝衡は雄叫びをあげた。目にはキラリと涙さえ光る。
「旧知の仲か?」
「同じ船で唐に渡り、同じ酒を干して、同じ夢を語った義兄弟のような者です」
朝衡はいまにも感情を激して、床を叩きそうなほどであったが、ふと脳裡を閃きが掠めたとみえて、すくりと背を伸ばすと高力士に提案をもちかけた。
「どうでしょう。娘子の件、この吉備にも助力を求めては?」
「日本の朝貢使にか?」
「この者は十八年ものあいだ、唐でまなび、帰国のあとは日本の東宮で皇太子に教鞭を振るっていると聞きます。儒教の精神は言うに及ばず、礼節を兼ね備え、醜聞を広めるような人物ではありません。そしてなにより謎とするものを解き明かす熱意と能力は、この長安をさがしても勝る者は数えるほどしか居ないでしょう」
「そんなにか」
「はい」朝衡は断言した。「それでも何か起こしかねない場合は、わたしが手綱をひきましょう」
「・・・・・・ふむ」
朝衡の自信に満ちた進言があっても、高力士はいまひとつ不安を拭えない様子だった。だが、朝衡の目には、あと一押しすれば納得する兆しにも映った。
「かの者は日本人でございます。しかも一年も経たず、長安から去る」
「それがなんだ」
「つまり何者の鼻薬も効かないのです」
これには高力士も目蓋をひらいて、ふかく頷いた。
「そなたの案、呑もう」
「御賢明と存じ上げます」
二人は密約を結んだ。こうして真備は知らず知らずのうちに、唐全土をゆるがす暗闘の舞台にあがっていくのだった。
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