第10話 梵音閣の秘密

 月は彼方に、夜鳥が啼く。


 寒山寺の梵音閣から、夜更けの梵鐘が夜闇を震わせ、それにあわせて腹を空かせた狗たちが遠吠えをする。


 深い夜である。

 そこかしこから深い寝息が聞こえる夜半に、人など一人として出歩いていなさそうなものだが、寒山寺からほど近い楓橋に一人、欄干に凭れながら梵音閣の音を聞いている男がいた。


 肩に濃紺の風呂敷包みをかかえた男は、鐘の音が夜の静寂にとけると寒山寺に向かい、閉ざされた西門から北の塀沿いに歩いていたが、すぐにぴたりと止まると短く指笛をふいた。


 すると塀の屋根から、ぬっと人影が出現した。影は男から風呂敷を受け取ると、男に手を伸ばした。細くなまっちろい腕は、よほどの功夫をつんだとみえて、軽々と男一人を吊り上げる。


 それから、ふたりは寒山寺の境内に音もなく飛びおりた。


「どうだ。梵音閣の様子は」

「大丈夫。坊主は出払ったわ」


 ふたつの怪しげな人影は、むせかえるような草いきれから立ち上がると、風呂敷を担いで梵音閣に向かった。


 三段甍の梵音閣は、夜の時を告げるために施錠されておらず、なんなく忍びこめた。ふたりは外に目を配ったあと、ゆっくり扉を閉めた。明かり窓のない鐘吊り堂は全てが闇黒に塗り込められる。しかし、二匹の盗人はたしかな足取りで堂内の隅にゆき、一枚の床板を剥がして、その隙間に躊躇いなく身を投じた。


 矩形にぽっかり空いた床孔の奥は、土をおしかためた階段が縁に沿うように十段ほどつづいて、竪穴式住居のように円形に掘り下げた空間にたどりつく。そこには甕一杯の開元通宝かいげんつうほう𠃵封泉宝けんふうせんぽうに始まり、束修そくしゅうで差し出す上質な帛、油紙でつつまれた荷札のついた荷など、盗品がぎっしりと積まれていた。


「兄さん、今日の成果は?」

「まあ待てよ、桂花けいふぁ


 兄さんと呼ばれた男は、暗闇のなかで手探りながら、壁龕のような窪みから油壺を探し当て、そこに漬け込んだ麻縄のこよりをひとつ抓んで、火打ち石で先端に火をつけた。


 それを土器かわらけの欠片に寝かせて、粗末な燭台ができあがると、盗人たちの顔が明らかになった。――男は昼間、真備が追っていた掏摸の青年であったが、桂花と呼ばれた乙女は、あろうことか、あの縄伎をみせた片割れで、しかも真備に頼まれて支柱にのぼった伎女であった。



「そういえば兄さん、今日は随分と遅かったじゃない」

「そいつは誰かさんが俺の逃げ場を教えたせいだ。夜になっても州兵の奴等が火を焚いて見回っていたから大変だったんだぜ」


「だって」妹が唇をとがらせた。「あの老人が言う場所、八里鎮しかなかったもの。あそこで見当違いのことを言ったら、他の雑技団の連中に怪しまれちゃう」


「だからって正解を言う奴があるか。もっとやり方があっただろう」

「やり方というなら、掏摸がバレた兄さんこそだわ」

「こればっかりは時の運さ」

「嘘よ。大抵、縄伎のあとは酷く興奮してるから、よく失敗するじゃない。今日だって止めておけば――」



「妹君の言うとおりですな。今日は止めるべきだった」



 突如として降ってきた嗄れ声に、掏摸の男は灯明をかかげた。


 床孔からゆっくりと降りてくるその人物の顔が照らし出されると、兄以上に妹の桂花のほうが驚愕した。


「老師!」


「予想はしていたが、やはり犯人は縄伎の姉妹、いや兄妹だったか」


 異国の老人は白鬚をしごきながら完爾とわらう。


 掏摸の男は、頭の天辺まで吹き上げた驚愕を直ぐさま意思の力でねじ伏せ、その老人が八里鎮でまいた人物と知っていながら、まるでいま遭ったように声色をやわらげた。


「なにを仰いますやら。我々には一向に見当もつきません。ただ身(み)共(ども)は掏摸のせいとはいえ、昼の騒動で場所を貸してくれた寒山寺に迷惑をかけたのを気に病んで、どうしても寝つけず、こうして夜でも仏僧が出入りする梵音閣にやってきたのです。勿論、閉門された境内に侵入したお咎めなら受けます。ですが、偶然みつけたこの床孔と隠された財貨は身共の仕業ではございません。身共が考えますに、これは寺の束修を保管していた穴蔵か、あるいはこの一帯に跋扈する湖賊の大胆な隠し蔵ではないでしょうか。それに――」


 青年は猫なで声でいう。

「訊けば、賊は卓越した縄伎の術――いや天竺の魔術を用いて、天空に逃げ去ったというではありませんか。身共も張った縄こそ渡れますが、長縄を宙に張って、それをつたいのぼって天に帰るような魔術、とんと知りませぬ」


「私も知らんな」

「であれば」


「しかし、なにも天にのぼる必要はない。ただ、あの袋小路より飛び去ればよい」


「ほう、それはいかなる縄伎で?」

「縄など使っておらぬ。掏摸が使ったのは長槍だ」


 真備は鬚をなでる。これは推察を述べる際の一種の癖だった。

「貴方達は寒山寺の縄伎の演目の途中、天女の衣を脱いで武将に扮した。一方は三国時代の猛将もうしょう顔良がんりょう。それに対峙する人物が、長く艶やかな髭で扮すれば、おのずと名はわかる。――蜀の名将であり、一時、魏に捕虜となり、官渡の戦いで顔良を下した武将、関羽かんう


 真備は美髭公よろしく白鬚を搾りながらいう。


「あの縄伎で演じられたのは、関羽と顔良との一騎討ちであろう。然らば、妹君も長槍を持つ手筈。討ち取った将が無手とはいうまい。しかしながら、妹君扮する関羽は得物を持つことはなかった。それもそのはず、おぬしが内緒で持ちだしていたのだから」


 兄が顔良として名乗りをあげたとき、桂花が驚いていたのは、まさにこのためだった。まだ長槍が運ばれていないにも拘わらず、演目を強引に進められ、演目は一瞬にしてアドリブ劇に切り替わったのである。


「おぬしは縄伎でつかうはずだった妹の長槍を、逃走経路の八里鎮の小曲に事前に立て掛けておいた。そして追っ手を従えながら、八里鎮の小曲をまがると、おぬしは用意しておいた二丈ばかりある長槍を泥濘から抜き取り、しっかり石突きあたりを持ちながら、全力ではしり、蔵の手前で、穂先を地面に突き立てたのだ。


 すると長槍の柄は孟宗竹のごとくしなり、石突きを掴んでいるおぬしの身体を、柱の高さに持ち上げる。さながら人間投石機のようであったろう。おぬしはその類い稀なる体幹をもって塀の屋根におりたつと、その二丈の長槍を、今度は塀の内側に突き立てて、そのまま音もなく滑り降りた。まったく人間離れした魔伎とそれを思いつく素晴らしい発想力よ!」



 ――読者諸賢は、掏摸の凄まじい魔伎が、棒高跳びであることを知っている。


 棒高跳びの発祥は、十六世紀のイギリスで、河川や垣根を越える遊びとして発展したとされるが、一説によれば紀元前一八二九年の古代アイルランドで開催された「ティルティンの競技会」の競技種目に、この棒高跳びの雛形をみることができるという。


 因みに二〇二三年現在、棒幅跳びの世界記録者はアメリカのアルマンド・デュプランティス選手で六メートル一七センチであるが、驚くべきことに、この掏摸は一三〇〇年後のレコードホルダーとほど同程度の跳躍をみせていた。


 ――閑話休題。話は捨て置かれた縄につづく。



「そうなると、縄にも意図が隠れている。思考を惑わす煙とでも言おうか。つまりこれが軽業による跳躍と悟らせず、嘉興の囚人のような天に摩する縄伎の魔術をおもいこませる煙幕であった」


 真備は着実に犯人を追い詰めていく。


「しかし決定的であったのは、地に穿った穴よ。長槍で突いたために、奥が穂先によって扁平な穴となり、また妹君の衣装と合わせた長槍の紺色の塗料が、地面でこすれて剥がれ落ちていた。私はそれでもうひとつの長槍の存在に気づけたのだ。すぐに付近の水路を探させたよ。すると案の定、塗装の剥げた紺色の長槍が石を抱いて沈んでいるのを発見した」


 掏摸の青年は実行者であるため、ぐうの音もでず、悔しさに歯噛みしていたが、妹のほうはまだ窮地を脱せるという期待を手放せずにいた。


「でもそれは兄ではないかもしれません。他人のそら似ということもあるでしょう?」


「それはない。ほかでもない君が私に教えてくれたのだ」

「わたしが?」


「覚えているだろうか。君が八里鎮だと教えてくれたあと、なぜ逃げ場に見当がついたか尋ねたね? そのとき君は致命的な失敗を犯している。いいかい。君は私にこういったのだ。――なぜ掏摸の男が八里鎮にむかうと分かったのか、とね。考えてみたまえ。見物人がごった返す中で、どうして掏摸が男であると分かるのか。現に群衆は疑心暗鬼になって、手当たり次第に殴りつけて、誰彼構わず犯人だと罵っていたのに」


「あ、ああ・・・・・・」

 妹の桂花は膝から崩れ落ち、ようやく観念した。


 二人して昏い穴蔵で俯く様子を、真備は静かに見下ろした。


「盗みは大罪である。が、私はこの国の官吏ではない。仁を以て汝等に善たる法を説くことはできても、罰をあたえる権利はない。だから盗んだ品々を人々に返すというのなら、私はおぬしたちの所業を見逃してもいいと思っている」


「ほ、本当でございますか!」

 妹の桂花は降って湧いた温情に、がばりと顔をあげた。


「無論じゃ。人は過つ生き物だが、改められる生き物であると、そう願っておる。安きに流れるだけが人じゃない。であるから――」


 真備がそう諭していたとき、ふと灯火が消えた。灯心が短かったのだろう。


 ひとつ、ふたつ数える程度の沈黙が生まれた。すると、床下の黒暗淵(《みわだ》のなかで、質量のある暗闇が蠢いた。


「――シュッ」

 鋭い発剄とともに穴蔵からひとつの塊が砲弾の如く飛翔した。


 その巨大な影は真備を突き飛ばすと、木扉にむかって走りだした。肩からぶち当たり、鼓を破るような音とともに扉を叩き開け、月夜にひとり駈けだしていく。


 すると梵音閣から轟いた音を聞き取って、番犬たちが高らかに吼え始めた。彼等は飢えによって酷く苛立ち、また薫ってくる匂いに、抹香臭い飼い主とは異なるものを嗅ぎとると、喉を殺意でうならせて、一匹、一匹と境内を駆ける掏摸めがけて殺到していく。


「あーーッ!!」


 縄も柱もない掏摸は、獰猛な番犬にされるがままであった。番犬として痛ましいほど餓えさせられた彼等は、たまりたまった鬱憤を、鍛えこまれた男の四肢や胴、そして首筋に叩き込む。


 その凄惨無比の死に様を、床孔から這い出てきた真備は、梵音閣の戸口で、顔を青くして見ているしかなかった。


「ああ、兄さん!!」


「いかん!」

 いつの間にか穴蔵から這いだしていた桂花が、物狂いめいた声をあげて、兄を助けようと無策にも走りだした。――末路は虚しく、彼女もまた痩せ犬の餌食となる。


 蒼い月影を舞台に、ふたたび梵音閣の広場で、美しい兄妹が血の胡旋舞をおどる。


 野卑な犬の唸りと咆吼を音曲に、赤く染まりゆく袖を振り乱しながら、酸鼻な演舞は数分のあいだつづいた。しかしながら、飢えた犬たちの怒りは兄妹ふたりでは満たせず、血に濡れた牙をむいて、梵音閣の入口でたちすくむ老人に目をつける。


 唸り声は血肉が喉にからまって、悍ましい震動をなす。鋭い牙は一噛みで真備の息の根をとめるに足るだろう。口端から血と涎の混合物を垂らしながら、じりじりと詰めより、とびかかるべくゆっくりと姿勢を低くした番犬たちは、どうしたものか、梵音閣の石段に前脚をかけた辺りで、急に鼻をヒクつかせ始めた。


 番犬のうなりから、凶暴性が抜けていく。


 もしやとおもい、彼等を警戒させないようにゆっくりと扉からはなれると、犬たちはのそのそと梵音閣に進入した。真備はすべての番犬が梵音閣に入ったのを確認すると、すぐさま扉を閉めた。


「はあ」

 安堵の溜め息をもらしたとき、騒ぎをききつけて、庫裏から僧たちがとびだしてきた。もとより示し合わせていたとみえて、寒山寺の僧たちは、異国の老人が番犬の餌食になっていないことに胸をなで下ろしていたが、広場に投げ出された無残なふたつの屍骸を目の当たりにすると、沈痛な面持ちのあと、口々に念仏をとなえた。


 念仏をおえると、紫衣をきた住職らしき僧侶が、青ざめたまま広場をみつめる真備をいたわった。


「異国の賓客よ。悔やむ必要はない。彼等に悔い改める心があれば、梵音閣にとどまり番犬の餌食となることはなかった。しかし、心の疚しさを捨てられなかったばかりに、死の報いをうけたのです」


 真備は住職に頭をさげたが、返事はしなかった。

 彼等は途中までみずからの罪を悔い改めよとしていたのではないか。だが、灯明が消えて暗闇にもどったとき、掏摸の心に魔が宿った。たった一瞬、あの数秒さえなければ――。


「それで、犬たちはどこに」


「梵音閣に封じてあります」

「ふうむ。それにしては声が聞こえませんな」


 それは真備も不思議だった。何かの匂いつられて梵音閣の暗闇に潜り込んでいった番犬たちは、入った当初は扉ごしに唸り声を響かせていたが、いまは一匹たりとも鳴いていない。住職が僧侶のひとりに手燭をふたつ持ってくるように命じ、それが到着しても尚、犬たちの声は寂寞のなかに一つとしてなかった。


 真備と住職は扉をひらいて、灯明で照らしたが、三匹の番犬は見当たらず、鳴き声や唸り声はおろか、足音さえしない。僧侶たちをひきつれて、恐る恐る梵音閣にはいると、どこからか、ひきつった喉から絞り出される、か弱い鳴き声が聞こえた。


 その可哀想な声の出本は、矢張りというべきか、地下の隠れ蔵であった。


 真備を先頭にして、ゆっくりとした足取りで階段をくだり、銅銭の甕や帛、今夜もちこまれた風呂敷包みの中身など、散々っぱら散らかされた穴倉を灯りで照らすと、乱雑に積みあげられた荷と荷の間に、三匹の番犬が身を寄せ合って弱々しく唸り、その内の一匹は痙攣しながら赤々とした泥のような鮮血を吐きだしていた。


「外傷ではなさそうだ」真備は息も絶え絶えの番犬の前に屈み込んで、犬の吐血に吐瀉物が交じっているのを認めた。「もしや、過って毒を喰らったのか?」


「もしや、あれではないでしょうか」

 住職が指さしたのは、積荷のひとつだった。


 それは木屑をつめた油紙に包まれ、さらに麻袋に保護された丁重な荷物だったが、犬の牙によって散々に千切られて、木屑まみれの小さな珠がそこら中に転がっていた。


「ほう。これは珍しい」

 住職が摘まみ上げて、灯明のもとにかざす。それは小さな木の実で、茶色く楠のようにひび割れた肌をみせる。


「住職、それは?」

茘枝れいしという果実で、華南かなんのほうで採れます。ひどく痛みやすく、四、五日で駄目になるので、そうそう蘇州でも見かけない代物です。おそらく財をなすお方が早馬をつかって運ばせていたのでしょう」


 ふたりが物珍しく話していると、よたよたと動く一匹の番犬が溢れている茘枝をひとつ咥えて、かぶりと噛んだ。まだ痛んでいないものだったようで、茶色い皮から白い透き通った実が露わになり、犬はそれを地面に放って、数度、味を確かめるように舐めた。


「ウウウウウウ」


 とたん、急にひきつけを起こしたように、口から血の泡をはいて、ばたりと倒れた。


 ふたりはギョッとして顔を見合わせた。


「住職、茘枝というのは犬を死に至らしめるものですか?」

「そのような話、聞いたこともない」

「であれば、毒?」


 二人は静かに目交ぜした。


 それから真備は荷物をよくよく観察した。掏摸の兄妹が毒を盛るとも思えず、荷物は犬が顎で引き千切った箇所以外、開封された痕跡はない。


「毒を盛ったのは送り主でしょうか。荷札はふむ、これは崩しすぎて読めない」

「異国の方には難しいやもしれない。貸しなさい。・・・・・・ふうむ。これは随分と悪筆であるなあ。だが受け取り手なら分かりそうだ。なになに――」


 老眼の住職は荷札を鼻先まで近づけて、

「あ!」

 と、悲鳴をとどろかせた。


「住職、如何しました」

「お、恐ろしいことです。まったく恐ろしいことです!」


 生々しい兄妹の死体をみても身震いさえ生じえなかった住職が、荷札の文字ひとつで子どものように胴震いする。


「住職。して名は? この荷の主は、だれを殺そうとしたのです」


 住職はごくりと生唾を呑み込んで、毒殺されるはずだった人物の名を叫んだ。


よう太真たいしん。玄宗皇帝の愛妃であらせられる、あの楊貴妃様です!!」


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