第9話 天に摩する縄伎

「吉備卿、どこにいかれるのです!?」

 真備はくるりと反転すると、傔人たちをおいて氾濫した河川に飛び込むように、ふたたび寒山寺にもどっていく。


 少しばかり落ち着きをとりもどしたとはいえ、寺内は混乱のくすぶりを残して、ときに顔に拳が掠めることもあった。けれど閃きに取り憑かれた人間特有の物狂いめいた足取りはとまらず、梵音閣の広場までたどり着くと、さきの伎女のひとりをみつけて、息を荒げたまま拱手ほうしゅした。


「私は極東の国より、唐の帝の賓客としてやってきた吉備真備と申します。先ほどは貴女の絶技に大いに感心し、心を打たれていたところ、我々の仲間のひとりが先の掏摸の被害に遭って、皇帝より頂いた生料を盗まれてしまいました。ひとり追っ手を向かわせましたが、不慣れな土地ゆえに心許ない。ついては貴女の妙技を再度用いて、天にのばした柱の上から、掏摸がどこに逃げこむか、是非とも見つけて欲しいのです」


 雑技団の面々は、急に身なりのよい異国の老人に追捕の助力を乞われて驚いたが、それ以上に眼前の白髪白鬚の翁が訛りのない見事な言葉を──それも都言葉をつかうのに一種の畏れすら覚えた。


 それが効をなしたのだろう。彼等は境内の西側の塀に柱をたてかけると、女は男たちが支える二丈の柱をするすると登っていき、フラミンゴのように片足で突端に立ちながら、周囲をくまなく見回した。──やがて伎女が上から大きな声で呼ばわった。


「老師、この柱をもってしても掏摸は見つけられません!」

「貴女に探してもらうのは掏摸ではない」

「では何を?」


「これから言うところを探してもらいたい。まず近場で、道がたえず泥濘んで、人の騒がしい場所を」


 伎女は納得しかねる顔で、言われた通りに周囲を見回すと、ややあって「あ!」と、声をあげた。

「ここより西へいった、法相宗のお寺の付近で、なにやら人のさわぐのが見えます」


「そこに沼か、泥濘のひどい悪路はあるか?」

「ええ老師、ありますとも。そこからひとつ橋をわたった八里鎮という倉庫街が、先月の雷雨で路面が沈下して、とおる俥もございません」


「うむ、助かった。もうよい」


 伎女は肌に脂をまとっているかのように、するりと柱から滑り落ちると、そのまん丸な眼を真備にむけた。


「老師。どうして掏摸の男が八里鎮に向かうと思うのですか?」


「うむ。これは老人の些細な思いつきじゃが」

 と、前置きを述べて、真備は推理を口にした。

「やつめ、掏摸のくせに高下駄を履いておった。ほら、貴女の履いていた二枚歯の下駄だ。同じ桐材で色も同じ朱色の鼻緒をしていたので良く覚えている」


射公しゃこうの下駄でございますね。それが何故、八里鎮と?」

「掏摸の鉄則は目立たぬこと。なにげない見物人を装うだけでは駄目で、印象に残らないようにしなければならない。にも拘わらず、あの掏摸はわざわざ、鳴り子のように騒がしく、歩きにくい高下駄をはいておった」


「とすれば、それなりの理由がある?」

「無論、逃走経路で下駄を履く必要があるのだ。峻険な坂道がないこの湖水地区で、射公の下駄を履かざるを得ない理由」


 伎女は手を打った。


「泥濘でございますね!」

「現にあの下駄の歯には乾いた泥がついておった。それに態々走りにくい高下駄で逃げたのだから、それほど遠い距離でもあるまい。加えて掏摸の心を見透かすに、掏摸の証しとなるものは持ち歩きたくなかろう。盗んだ物を見つかれば身柄を捕まえられても、空惚けることもできる。だから盗みの場からさして遠くなく、人気のないところに隠し、ほとぼりが冷めたあとに持ち帰る。――私はそう考えた。それが正しいか、ちょっと見てこよう」


 真備はそういって、八里鎮のほうにゆるゆると沓を鳴らした。





 八里鎮は水路に接岸するはしけの人足以外、人影はまばらだった。

 この小村を棲み家とする人々もいるのだろうが、好んで半沼とかした路地を通る者はいないとみえて、人声も絶えたようにひっそりとしていた。


「ここで当っているのでしょうか」

 掏摸に銭束を盗まれた古麻呂の傔人がひそめくようにいう。さきの騒ぎで蘇州人に強烈な苦手意識を植え付けられたらしい。まして八里鎮は背の高い倉が林立して路地に影をさし、いつ湖賊が飛び出してきてもおかしくない。


「恐ろしければ、一人で帰っても良いぞ」

「殺生な!」

 と、傔人は悲鳴をあげる。

「ここは湖賊が居るというじゃないですか。まして先ほどの暴徒のひとりが、わたしを掏摸と思い込んで襲ってくるかもしれません」


「どうもさっきの騒ぎで随分してやられたらしい」

「わ、笑いごとではありませぬ!」

 傔人がそう喚いた声に呼応したかのように、あらたな声が轟いた。


「――待て! 盗人」


 やせぎすの傔人は跳び上がって声のほうをみやった。蔵を隔てているので姿は視認できないが、距離にして一町と離れていないようだった。


 真備は沓をぬいで素足になると、両端を蔵に挟まれた細く、泥濘んだ小路に足を突っ込んだ。


「あ!」


 途端、一本の小径に三つの声が木霊した。


 路地の南側に立っていた真備は、小径の真ん中で立ち止まった。黄色みがかった帛服の掏摸の青年をみとめ、またそのうしろに、右手で頭巾を抑えながら、むくつけき素足をそのままに、赤ら顔で息を切らせている古麻呂をみえたのだ。


「チッ!」


 掏摸は新たな追っ手に驚きこそすれ、すぐに猛然と奔馳の姿勢にもどる。その速度たるや平地の時となんら遜色なく、老いた真備の身では、鎧袖一触のうちに突き飛ばされるのは明白だった。


 ――あるいは、これが私の死か。

 脳裡につめたい諦観が掠め、彼我の距離が二十メートルまで接近したとき、掏摸はぐるりと身体を半回転させ、死角となっていた右の裏路地へと飛び込んだ。


「捕まえてくだされ、真備殿!!」

 古麻呂の大喝でふたたび泥濘をふみしめる。そして掏摸の曲がった路地まで数メートルまで近づいた時、ドンと大槌で地面を叩きつけたような轟音が路地を震わせた。


「・・・・・・真備殿。今のは?」

「ひどく重い音でしたな」


 二人は目交ぜすると、意を決して、一気に路地に躍り込んだ。


 だが決死の想いで飛び込んだ二人を待っていたのは、悩乱へと誘う奇体な光景だった。


「・・・・・・どこに消えた」


 掏摸が駈けていった路地は、幅二間(三・六メートル)ほどの、漆喰蔵で阻まれた峡谷の切り通しのような小路で、そこから二丈(約六メートル)ほどの長くない隘路の先に、これまた二丈もの断崖の如き白い築地塀がそびえ、その奥で青い宝蔵の甍が輝いていた。


 塀は塗りたてのように白々として汚れのひとつもなく、潜り戸のような小さい扉すらなかった。あるのは只、泥濘のうえに、深々と印されている下駄歯の足跡ばかりで、それも築地塀から五歩ほど手前のところでぷつりと途切れていた。


「これは、もしや・・・・・・」


 古麻呂は、蹌踉とした足取りで、途切れた箇所でとぐろまく物を見下ろした。


 そこにはあったのは、今しがた天から落ちてきたかのように、乱雑にちらばった長い麻縄のとぐろ塚であった。真備はふと鋭い視線をその中心にそそいだ。縄のとぐろの真ん中の泥濘に、兎が掘り返ししたような深い孔があったのだ。


 その穴は奥の方でさらに扁平な形となり、まわりの固い土との間に、青みをおびた塗料の細片が付着していた。


 真備はこの穴にひどく興味が湧いた。それというの、この一本道の入口直ぐの側壁の下にも、孔の形こそ違えども、円柱状の孔を認めていたからである。――しかしながら、真備はそれが何の為の孔であるか、このときは見当もつかなかった。そのかわりに脳裡に浮かんでいたのは、ひそやかに囁かれていた魔神のごとき縄伎の噂である。


「ま、まさか」


 同じ思念に囚われた古麻呂が、顔をあおずませながら、突き抜ける蒼天を仰いだ。


「まさか本当に、天に逃げたというのか!?」


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