第8話 寒山寺の縄伎

 寒山寺は州城外西の、河で間切られた三角洲にあった。


 西門から入ると、脇の粗末な犬小屋から、胡餅の匂いを嗅ぎづけた三頭の犬が涎を垂らして、怨めしそうに唸りをあげる。古麻呂曰く、夜間に寺宝を盗もうとする湖賊除けに買い始めた番犬で、餌は雑穀を一日一椀でわざと飢えさせ、番犬としての獰猛さを高めているという。


 ちょうど胡餅を食べようとしていた矢先の事だったので、飢えた犬の前で食べるのも憚られて、しぶしぶ巾着にいれると、境内に目をそそいだ。


 ひろい境内は、芝居や演劇、露店などで溢れかえっていた。寺院は今でいう市民公園の役割をかねていたらしい。真備たちは数ある戯場のなかでも、梵音閣のあたりで、人一倍見物人を集めている一角に目をつけた。


 人の隙間から覗き見れば、管楽器の音曲のもと、濃粧の女性がふたり、両袖につけた領巾をたなびかせて、紅と紺の相対する服装で独楽の如く回転していた。旋舞だけあって、音曲は非常にテンポよく、それにあわせて旋回する裾や領巾は、幻惑的な色彩をたえず放射して、万華鏡を覗くような陶酔感をあたえる。 


「あれが胡旋舞こせんぶです」

 と、古麻呂が事情通のように言う。

 唐代において『』は、北方や西域の異民族を指す、かなり広義な呼称だが、その一方で明確な種族をさして『胡』と称される時もある。


 それがソグドと呼ばれる中央アジアを拠点に東西の交易をとりおこなったイラン系のオアシス農耕民族で、彼等は交易によって栄え、また漢人と同化するところもあり、多くのイラン系文化が持ち込まれた。胡旋舞はその代表例であった。


 胡旋舞がおわると、次は待ちわびた縄伎が始まる。


 まず二人がかりで、大きな綱玉が広場に転がされた。

 綱は全長三十メートルはあろうか。それをたゆませながら広場の両端に伸ばしおえると、縄の両端に鹿廬かろとよばれる滑車をとりつけ、地面に固定する。そして綱の両側に二丈(およそ六メートル)の柱を立てると、両柱の突端に縄をわたらせて、鹿廬をまいてピンと張らせた弦とする。


 ついで、さきほど衆目を虜にした胡旋舞の姉妹が、両柱にあって、美しい素足を高く上げて太股を柱にぴたりと吸い付かせると、大蛇のようにするすると妖しく絡みつきながら登っていく。


 ふたりは示し合わせたように同じタイミングで天辺に立つと、地上から放り投げられた高下駄を爪先で器用につかみ、五指をうごめかせて履いてみせた。


  準備万端となれば天女の到来をつげるべく、音曲が雅やかなものに変わった。姉妹もまた天女が憑依したように嫣然たる微笑をうかべて、おもむろに綱の上を歩き出す。


 ただ歩くだけではない。

 曲調が走ればあわせて速く、緩やかになればそれに応じて穏やかに、高下駄の歯で綱を踏みしめながら、縄の上を緩歩し、また疾駆する。


 さらに天女の距離が詰まり、あわやぶつかるとなれば、地上の観客から悲鳴があがった。しかし二人は巧みに身を躱してすれ違い、たなびく領巾が絡み合って穏やかに離れていくと、大地を振るわせる歓声がわきあがる。


 さらに曲調が猛々しいものに転調すると、突如、朱丹の天女が衣服を脱ぎ始めた。観客からどよめきと歓声があがり、それが次第に「あ」という吃驚に変わった。


 鮮やかな衣の下に隠れていたのは緋縅の綿鎧だったのだ。


 紺碧の天女も同じく衣装の下に綿の武具をよろい、袖の下に隠していた艶やかな長い黒の付け髭を小さいあごに粘着させた。美しい天女は麗しい将軍に変化し、朱丹の天女には、さらに柱とおなじ長さの赤塗りの長槍を渡された。


 彼女はそれを頭上でぶん回し、びゅんびゅんと風を切りながら、ごうと吼える。

「やあ、吾こそは袁紹えんしょうぐんきっての猛将とうたわれる顔良がんりょうなるぞ!」

 とたん、観客から脱衣以上にどよめいた。


 天女の声が、女人と思えないほど雄々しかったのだ。よくよく喉元をみれば、男の膨らみが見て取れる。――かくも美麗な男もいるものだと、周囲のおどろきもひとしおだったが、真備はそれより、もうひとりの天女が、愕然と目を見開いたという、奇怪な反応を見逃さなかった。


 まるで罠にかかった狐のように凄まじい身震いが彼女の全身に行き渡ったが、紅将軍が長槍を水平に構えると、彼女も芥火をかきわけるように勇ましく進んだ。


 青の将軍が叩き落とされる、そう思う観客をよそに、彼女は付け髭を領巾のように靡かせながら、武術のように重心を巧みにかえて、よろめきながらも綺麗にさけ、ふたたび交わり、そして行き過ぎてみせると、ふたたび爆竹を撒いたような大歓声があがった。――万雷の拍手とともに姉妹の縄伎がおわると、呑刀や吐火など数々の軽業が披露されて、そのたびに観客を驚嘆させてたが、くだんの天を摩する縄伎は、結局、一度も披露されることはなかった。



「真備殿、申し訳ない。どうやら噂は噂でしかなかったようだ」


 散開する群集に押し流されながら、古麻呂は口惜しげに謝る。

 しかし真備の心は晴れやかだった。


「恥ずかしながら、長い間、唐にいたとはいえ、このような素晴らしい軽業を見損ねていたらしい。自身は漢籍の上でおよぐ紙魚であったと痛感させられました」


「ほう」

 古麻呂は殊勝な態度が意外だったらしく、丸い目を瞬かせた。

「どうやら聞き及んでいた方とは違うようだ」


「学者肌の偏屈と聞かれたのなら、それは全くの事実です」真備は自嘲をもらした。「私は私が呆れるほどひねくれ者でしてな。我が子からも呆れられる始末で」


「聖武上皇がながうたで褒めそやした、あの真備殿が?」

「日本でも唐でも、人の噂というのはアテにならないものですね」

「いや然り。大いに然り」


 古麻呂は呵々大笑したが、ふと脳裡に掠めたものが愉快さを奪ったのか、卒塔婆を踏んだように表情が翳っていく。


 ――如何した?

 そう声をかけようとしたとき、見物人の中から悲鳴があがった。


「掏摸だ。掏摸がいやがる!」


 それが鬨の声だった。あれほど和やかだった境内が、一転して荒れ狂い、自分も被害にあったと絶叫する者、盗まれてはかなわないと逃げようとする者、それを犯人と捉え違いして引っ捕んで殴る者など――。蝟集した群衆が加速度的に暴徒とかしていく。


「これはいかん。真備殿、西門のほうへ」

 拡大する狂乱の渦から、命からがら抜け出した真備たちは、寒山寺の西門をぬけて、楓橋の手前でようやく一息ついた。


「お怪我は?」

 そう訊く古麻呂は服が乱れ、頭巾も斜めに傾いでいる。

「おかげさまで無事です」


「あ!」


 と、声を挙げたのは古麻呂の傔人つきびとだ。彼は懐を弄って悲痛な声をあげた。


「ない。わたしの十貫銭」

「莫迦。掏られる奴があるか!」


 傔人の不手際に古麻呂は怒鳴った。そのとき、西門から押し合いへし合いしながらやっとこさ抜け出した見物人らしき男が、何とも意味の判らない叫びを迸らせながらこちらを指さした。


「あいつだ。あいつが掏摸だ」


 一瞬、自分たちが疑われたと思ったが、その声に背を叩かれたように、泥のついた汚らしい高下駄を履いた青年が、真備の脇をすりぬけて、脇目も振らず楓橋を駆けていた。


「む」

 真備が唸った。横を掠めた瞬間、帯をなぞられた気がしたのだ。まさかとおもって探ってみれば、腰に結わえた紐が刃物ですっぱり切られて、無様にぶら下がっている。なんという早業だろうか。さきの青年を目で追えば、手元に巾着が掴まれているではないか。


「古麻呂殿、あやつです」

「応!」


 委細承知とばかりに、古麻呂は猛牛のように大地を蹴った。


 四十後半とは思えない凄まじい健脚は、見る見るうちに掏摸との距離をつめていく。しかし相手も然るもの。後ろ岸から悍馬とみまがう男が迫ってくるとみるや、速さで撒くことを諦めて、すぐに路地に入った。


 古麻呂がいくら速かろうと、蘇州は沼地の大蓮池。島々は多様に入り組み、水路は毛細血管のように際限がない。地の利は掏摸に味方する。遠くから追走劇を険しげに眺めていた真備も、半ばあきらめが起こり、いまはもう天網恢々てんもうかいかいにしてうしなわず、かの者の悪行が天によって裁かれることを祈るしかない──。


 そう諦めかけていた真備の脳裡に、突如として、稲妻のような閃きが走ったのはまったくの偶然だった。

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