第4話 在りし日の面影

 黄金と伝戒師、それから死への企て。

 異例づくめの遣唐使は、こうして始まった。


 のちに『江談抄こうだんしょう』や『吉備大臣入唐絵巻』によって語り継がれる真備二度目の長安行は、こと日本だけでなく、唐においての転換点を目撃する意義深いものになっていく。


 しかし、それを語り始める前に、物語の主人公であり、藤原仲麻呂によって、あわや死の座にすえられた吉備真備について、これまでの半生を語らせてほしい。


 吉備真備きびのまきび。――日本全史に通ずる人であっても、名を知るのみで、どのような人物か、さして知らないようである。


 真備は持統天皇九年(六九五)右衛士少尉うえじのしょうじょうを極官とした、備中びっちゅう国、下道しもつみち郡(現在の岡山県倉敷市)で、下道圀勝しもつみちくにかつの子として生まれた。


 婿入婚が主流であったことを鑑みれば、幼い真備少年は、瀬戸内海の潮風を浴びて育ったのではなく、母方の大和国やまとのくに宇智郡うちぐん(現在の奈良県五篠市付近)で、金剛山を背にして吉野川の渓流で遊んでいたのだろう。


真吉備まきび、唐という大国を知っているか」

 古歌に詠われる吉野の桜を望みながら父、圀勝くにかつはそう語りかけた。


「あの国は凄い。私たちがまだ国家という枠組すら持たず、みな一様に稲作りに励んでいたとき、かの国ではしゅうという王朝が割れ、二百あまりの諸侯が生まれ、産声の如く干戈を鳴らし、英雄がきら星の如く現れ、火球の如く宵闇に消えていったという」


 武官の圀勝は、酒がはいると、韓信や項羽など、勇ましい武将の英雄譚を好んで聞かせた。

 こと中華の武将の話に偏っていたのは、真備の父方の家系が、並々ならぬ唐への憧れと関心を抱いていたためで、圀勝の『圀』は、当時唐の最先端の則天文字を当てている。これは武周の女帝、則天武后そくてんぶこうが改めた十七文字で、彼とその兄、圀依くによりは、共にその漢字を名に当てるほどのコリようだった。


 そのように名に凝りがちな父親だから、我が子に、備中・備前・備後の三国を束ねていた古の吉備国を名に取り入れて『真吉備まきび』と名乗らせるほどだから、真備は、幼い頃から氏族の期待を一身に集める神童だったのだろう。


 圀勝は、はては少納言にでもなってくれぬものかと期待をかけて、現代の親がせっせと幼児に英語を教えたがるように、当時の先進国たる唐の話を度々聞かせていた。


 しかし、武官の父の意に反して、不思議と真備が聴き好んだのは、つねに各国を漂流する一人の哲学者のほうだった。


 その哲学者は乱世にあって人の在り方を説いて廻る遊説の徒で、人々が名利に汲々する巷を、彼だけは普遍的な善なる法をもとめて彷徨った。


 名は孔丘こうきゅう。儒学の祖、孔子である。

 真吉備の琴線はこの古代の哲学者によって掻きならされた。儒学が官吏の一般教養とはいえ、勇ましさとは対局の孔子に憧れる子どもに、しまいに圀勝が苦り切って、

「あれは月明かりに向かって飛ぶ銀蠅だ。人の人たるを知らず、人以上になれると夢想している。水は低きに流れども、けっして遡ることはない」と、悪し様に罵ったが、真吉備はむしろ納得したように頷いた。



 その夜、幼き真吉備は、ひとり軒先に出て夜空を見上げた。吉野山にのぼる月が、この夜ばかりは手を伸ばせば掴めるほどに大きく、まん丸で、蒼い月光が頬をやさしく照らした。


 かくして父の期待を背負って育った真吉備は、十五歳で情願して大学寮に入り、六、七年の修学ののち省試に合格、従八位下を授けられている。


 ――必ず留学生になってやる。


 自他共に公言していたに違いない。官位を得るとすぐさま霊亀れいき遣唐使けんとうしの留学生として名乗りをあげて、翌年二十三歳で入唐を果たした。名はこの頃、唐式にあらためて真備まきびとしている。


 長安では鴻臚寺こうろじ四門学しもんがく助教の趙玄黙ちょうげんもくから儒学を学ぶが、彼の好奇心と探究心はとどまることを知らず、ひろく諸芸に及んだ。


 のちに日本に及ぼした功績を踏まえると、儒学・法律・礼法・祭礼・軍事・築城と、在唐の十八年間、寸暇を惜しんで勉めたことが分かる。――天平七年(七三五)四一歳の壮年の真備が帰朝して以降、朝廷から類を見ない厚遇をうけたのも無理からぬ話だった。

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