第5話 老蠅

 吉野の桜が思い起こされる、おだやかな春風吹く奈良の都。

 いくども華々しい進叙の詔が読み上げられた平城京の朝堂に、彼はふたたび引き出されていた。


 深緋ふかあけの大袖に條帯くみのおびを廻した大礼服姿は、流石に堂に入っている。顔色も申し分なく、善意入道にみせた深い憂悶の影こそなかったが、遣唐使という国家事業を担う晴れがましさとも無縁で、大宰府でみせていた茫洋とした瞳で、朝堂の石段を眺めていた。


 彼の視線の先には一匹の蠅が梅花の香りに酔ったように飛び回っていた。

 色はくすんだすず色で、老いているのか、どこか鈍重だった。


 天平勝宝四年(七五二)、閏三月九日。

 まどろみを誘う春暁、大極殿にて節刀の儀が執り行われていた。


 大極殿の前には、三人の遣唐使がいる。


 その一人は無論、吉備真備老だが、このほかに二人、彼から右並びに立っている。隣は真備より十ばかり若い、武官然とした壮年の男で、その更にとなりに十歳離れた青年が挙止楚々として立っている。彼らはふかぶかとこうべをたれて、とってつけた理由ともに、真備の位階に見劣りしないように、帳尻あわせの昇叙が下賜されたあとだった。


「大使藤原清河卿、前へ」


 隅に控えている官吏の声が、広い朝堂に木霊する。


 呼ばれたのは青年のほうで、爪先で床を掃くような落ち着いた物腰で、腰の組緒もそよがず、底の高い黒漆塗皮の沓の音だけが、石清水のようにひびく。


 女人のようにつるりと綺麗な卵肌に顎髭を蓄えた涼やかな青年は、天皇から下賜された標の太刀を恭しく拝領するその風韻に、はたして人に於いても貴種というのがありうると思わせるものがあった。


「副使大伴宿禰古麻呂殿、前へ」


 対して大伴宿禰古麻呂はひどく武張ってみえた。


 大伴氏というと古くからの名門武官で、所作は大仰でぎこちないが、困難な唐への往還を難なくこなしてしまう頑健さに満ち満ちている。また風説を聴くに、留学生として唐に渡った経験があるらしく、一年あまり長安に学び、奇しくも真備と同じ遣唐使船で帰国していた。


 藤原と大伴。

 ともに名家として名高いふたつの氏族である。真備は名こそ古いが、名の権威は彼一代によるものだ。後ろ盾になるようなものはひとつとしてない。


「副使吉備朝臣真備殿、前へ」


 彼は呼ばれ、朝堂の基壇をあがる。

 ひろい大極殿には、高御座という玉座がある。その構造は壇をすえた御輿のような形をしていて、金銀雑宝でかざられた八角形の屋形の下には緞帳が垂れ、中央には帝が腰をすえる椅子がある。女帝はそこから、かつての師を懐かしそうに見下ろしていた。


 ――ご立派になられた。

 在りし日の春宮を思い出して、真備は自然と顔がほころんだ。


 最後に春宮で拝したのは五年前。三十才と妙齢ながら、自らの重責に押し潰されそうだった乙女も、いまや御大袖、御小袖、御裳に御裾まで、帛白衣の晴れがましい純白の大礼服に袖を通し、赤い御沓と雑玉を垂らした金冠をかぶって、若き女帝の威光を遺憾なく発している。


 三十三歳にて大君となった孝謙天皇はこのとき三十五歳。

 うりざね顔は白粉ごしに気品を放って、朱の花鈿が彼女の美麗さに華を添えていた。


「吉備よ」帝は声を発した。鈴とした声であった。「息災か」


「日々、坐して経史を読んでおります」

「なるほど。日々欠伸ひびのあくびは健在か」


 鈴を転がすように笑う。

 この女帝には風変わりな性癖があった。ときに親しげに、ときに懲罰的な意味合いをこめて、他人にあだ名をつけるのだ。


 日々欠伸というのも、真備が春宮大夫の頃につけられたあだ名で、漢籍と向き合う欠伸の洩れる退屈な日々を送っている様子を揶揄されたものだが、そこにはどこか、親の気をひこうとする子どものような無邪気さがうかがえた。


 大君の振るまいとしては、目を眇められるべき態度だが、実父は天変地異を恐れるあまりヒステリックに仏教を崇拝し、実母は実家の支配力の拡大に汲々していることを鑑みると、いくばくかのお目こぼしも許されるだろう。


 まして藤原氏の勢力拡大のため、他家との婚姻も許されず、ほかの男性天皇を擁立しようという向きもあって、なかば強制的に独身を強いられている女性である。のちに道鏡という破戒僧と空前の大スキャンダルを起こすのも、ここに根因がなかったとは言い切れない――。


 そんな不遇の女帝にとって、真備は唯一虚心で向き合える師であった。


 そのような深い尊尚親愛そんしょうしんあいの間柄だから、別れに交わすべき言葉は、幾千、幾万とあっただろう。しかしながら、官吏が標の太刀を捧げもてば、女帝は無表情というには不機嫌によった面持ちでそれを許し、真備も差し出された太刀に手を伸ばさなければならない。


「拝領いたします」

 左右の掌に、節刀の重みが加わった。


 しかし、どういうことか、彼は一向に太刀を掴もうとしなかった。

 

 なぜ掴まないのか、彼にも判らなかった。ただ、一瞬のうちに、胸にぼやっと薄暗い霧のようなものが立ちこめて、その霧が漠然と何者かの顔を形づくった。それが自分自身の顔で、口元に底意地の悪い微笑を浮かべていることに気づいたとき、彼は胸が凍りつくような思いに打たれて息さえできなかった。


 ――彼女こそ、日本に善の法をしく天皇なのだ。


 彼はその一念をもって孝謙天皇に尽くしてきた。まして孔子に私淑する彼にとって、日本を統べる女帝に君子たる訓戒を説く機会を得たことは、儒学者としての本懐だった。


 ──彼女のために死ぬのだ。


 教えるべきことを教え、語るべきことを語り終えた師は、種を残して枯れる花だ。いずこで死しても、なにを恨むことがあるだろうか。ましてや乱をおこし、彼女の治世に泥を塗るなど、教え子の未来を祈る教師として、ありうべからざることだ。


 ──そう断じたはずだろう。


 しかしながら、数えきれない理屈をこねて、孔子の教えを範として奮起してみても、畢竟、知識や題目の下に隠れていた本心は、孝謙帝が自分を不憫におもって、その勝ち気な性状をもって全てをご破談にしてくれるのではないかという浅はかな期待だったのだ。


「吉備?」

 懐かしい教え子の声が、凍てついた真備に降り注ぐ。


 彼はまるで熱湯を浴びせかけられたように身震いして、節刀をすぐさま掴んだ。


 死出の旅路に納得したのではない。この温厚な礼徳の実現者は、ともすれば眼前の教え子に憎悪を向けかねないことを危惧して、咄嗟に標の太刀を拝受したのだ。


 自刃の太刀を下賜されたように、彼は悄然とした。


 その時、ふと掌から小さい綿埃のようなかたまりが落ちた。ちらりと見下ろせば、灰白色の砂利の上に落ちていたのは、あの老いた銀蠅の死骸だった。

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