3-9.記憶

 自らを殺せと懇願する伊邪那美命いざなみのみこと。その頭上に黄泉津大神よもつおおかみから噴き出た、どす黒い死の穢れが集まっていた。それらは周囲の紫を取り込み、死の穢れの雲を形作っていた。そして、はやて天之尾羽張あめのおはばりを振り下ろさんとした瞬間、一気に急降下を始めた。


 黒き滝が伊邪那美命に降り注ぎ、神代の剣を防ぐ。濃縮された死の穢れが大きく広がり、颯を呑み込んで竜巻のように渦巻いた。


 伊邪那美命の悲痛な絶叫がほとばしる。死の穢れの竜巻は勢いよく回転しながら益々紫色を取り込んでいく。それはまるで黄泉国よもつくに中の死の穢れを集めているかのようだった。


「う、あ……」


 どす黒い奔流が颯を襲う。先ほどまですぐそばにいた伊邪那美命の姿も今は見えず、ただただ黒と紫だけが颯の視界のすべてを覆い尽くした。


 颯は思わずうずくまる。胸の奥から吐き気が顔を出し、心の底から暗い感情が湧き上がってくる気がした。そんな颯に構うことなく死の穢れの竜巻はどんどんと勢力を増していき、やがて、八雷神やくさのいかづちのかみすらも吸い寄せる。


「颯様!」

「颯!」


 渦の外で沙々羅と五十鈴媛が声を張り上げるが、渦中の颯には届かない。


 闇の中で、颯の全身に死の穢れがまとわりつく。何とか状況を把握しようと薄く開いた颯の瞳が、8つの雷を捉えた。竜巻の中心で、死の穢れの嵐が吹き荒れる。


「こ、れ、は……」


 黒と紫の風が颯を襲う度に、颯の脳裏に知らない光景が浮かんでは消えていく。その映像の中で、颯は女性になっていた。颯は隣り合う見知らぬ男と一緒に矛で混沌をかき混ぜる。ゆっくりと矛を引き抜けば、滴り落ちた何かが島となった。


 頭の中の光景は次々と切り替わっていく。颯は大きな柱をゆっくりと回り、全裸の男性と出会った。今度は逆回り。同じ男性が凛々しい声を発し、颯も透き通るような声で応じる。その女性の声には聞き覚えがあった。


「これは、伊邪那美命の記憶……?」


 颯の呟きは、荒れ狂う死の穢れによってすぐさま搔き消された。


 また脳内の映像が切り替わり、驚愕と恐怖で言葉をなくした最愛の男の姿が映る。即座にきびすを返して逃げ出す男性。その姿を目の当たりにした颯の心に、恥ずかしさと悲しみ、そして、それを遥かに上回る憎悪が込み上げてきた。


「違う……。これは僕じゃない。この気持ちは伊邪那美命のもの……!」


 颯の心が悲鳴を上げていた。かつての伊邪那美命の感情と今の颯の気持ちが溶け合い混ざり合い、颯の心の器を埋め尽くさんとしていた。


 このままでは鬼になってしまう。そう本能的に察した颯は、死の穢れを通して自身の心に入り込んでくる伊邪那美命の感情を他者のものだと強く思い込む。


 しかし、尚も映像は続いていく。


 自らの視界を塞いだ大岩。黄泉比良坂の出入口をすっぽりと覆い隠した巨大な岩を目の前に、颯はホッとしていた。


「違う……」


 颯の脳裏で声が響く。


『私はお前の国の人間を日に1000人殺す』


 憎悪にまみれた女性の声だった。透き通るような声の面影はなく、しわがれた声だった。もはや呪いと言っても過言ではないほどの言霊を乗せた言葉は、なぜか大岩の向こうから聞こえてきた。


『ならば、私は日に1500の子を産ませよう』


 それは誓いの言葉。先ほど愛する妻の変わり果てた姿を目にして逃げ出した男のものとは思えない力強い声が、颯の口から紡がれる。


「これは僕の……。いや、伊邪那岐命いざなぎのみことの……」


 その瞬間、先ほどまで脳裏に過ってきた光景が再度甦る。しかし、そのままではない。


 矛で掻きまわしているとき、隣にいたのは男性ではなく女性。大柱を回って向かい合ったのも全裸の美しい女神。そして、暗闇の中に浮かび上がったのは、朽ち果てた、愛する妻の姿だった。


「僕は……」


 荒れ狂う黒と紫の巨大竜巻の中心で、一際どす黒い死の穢れが人型へと収束していく。その核となるのは伊邪那美命。その体の8か所に、雷と化した八雷神がつどう。


 頭部に大雷おおいかづち、胸に火雷ほのいかづち、腹部に黒雷くろいかづち、女陰に析雷さくいかづち、左手に若雷わかいかづち、右手に土雷つちいかづち、左足に鳴雷なるいかづち、右足には伏雷ふすいかづち。それは元々8柱の雷神が生まれた場所だった。


 禍々しい人型が八雷神を取り込み、死の穢れの竜巻のすべてを吸い込んだ。


 一瞬の静寂。


「颯様!」

「颯!」


 背後から沙々羅と五十鈴媛の呼ぶ声が聞こえた。視線の向こうに、倒れ伏した真菜の姿もあった。黒い人型が膨れ上がる。


 漆黒が、見上げんばかりの大きな球と化した。颯の背筋を得も言われぬ恐怖が這い上がる。


 直後、爆風が巻き起こった。人型だったものを中心に黒が弾け、質量を持ったかのような死の穢れが辺りのすべてを吹き飛ばし、死者の国に、そしてその先へと広がっていく。


「そんな……」


 起き上がった颯の目の前に絶望的な光景が広がっていた。黒き穢れの爆心地に、化け物がいた。


 図太い蛇の腹から8本の蛇の尾が伸び、上半身はひび割れたどす黒い女性の裸体。大雷おおいかづちを一回り大きくしたほどの巨体の半人半蛇の化け物は禍々しい黒紫のオーラを纏い、その腕から無数の蛇を生やしている。


『―――――!!!』


 化け物が言葉では表せない咆哮を上げた。聞くものに死を与えると言われても不思議ではない叫びだった。颯の背後で二人の女性が声にならない悲鳴を上げていた。


「沙々羅、五十鈴媛。黄泉津大神よもつおおかみは僕が引き付ける。その隙に真菜を連れてこの場を離れるんだ」


 颯の声には有無を言わせぬ迫力が滲んでいた。二人が頷く気配を背に感じながら、颯は大きく息を吸い、そしてゆっくりと吐き出す。


 天之尾羽張を構え、自らの心に問いかける。颯は颯であり、しかし、颯だけではなかった。


「すまなかった。今度こそ、楽にしてやる」


 化け物を見据え、颯の中のもう一人が、そう口にした。


「颯様。あなたは……」

「沙々羅、行くわよ!」


 背後から二人の気配が遠ざかる。颯は神代からの愛剣の切っ先を半人半蛇の化け物に向けた。


 死者の国を統べる大神、黄泉津大神との本当の戦いが、今始まる。

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