3-8.願い

「私はあなたを愛していた。あなたも私を愛していた。けれど、あなたは私を裏切り、私はあなたを怨んだ」


 黄泉津大神よもつおおかみが語る。その言葉は明らかにはやてに向けられてはいるものの、颯自身に思い当たる節はなかった。颯はいぶかしく思いながらも、女神の神秘的な美しさに引き込まれ、口を挟むことができない。


「私は今でも千引きの大岩を挟んでした、あなたとの誓いを忘れはしない。それが私の全てだった。それだけが、自らの手であなたを葬り去った私にとって、あなたを感じられるたった一つの方法だったから」


 黄泉津大神が一息つく。澄んだ表情の中に、僅かに疲労の色が見えた。


 颯は“千引きの大岩”という単語や“愛”、“裏切り”、“怨む”という言葉から、実のところ、黄泉津大神は颯自身ではなく、かつての夫である伊邪那岐命いざなぎのみことに向けた想いではないかと考える。なぜそれを颯に告げるのかは謎だったが、そうとしか思えなかった。


 しかし、先の言葉が真実だとするならば、黄泉津大神は自らの手で伊邪那岐命を殺したということになる。それは颯の知る日本神話、そして埃宮えのみやで彦五瀬や沙々羅らから聞いた話とは異なった顛末てんまつだ。


 黄泉国よもつくにまで黄泉津大神、いや、伊邪那美命いざなみのみことを迎えに行った伊邪那岐命は、醜くなってしまった妻の姿を目にして逃げ帰ったはずなのだ。その際に、かの神は追いかけてきた伊邪那美命が黄泉比良坂よもつひらさかから出て来られないように千引きの大岩を置いて塞いだというのだから、颯の知る限り、両者が戦ったという事実はない。


「私はあなたを怨んでいた。けれど、それと同じくらいあなたを愛していた。あなたと共に造り上げたこの世界を愛していた」


 多くの神々の父母とも言える伊邪那岐命と伊邪那美命の夫婦神は、日本神話の中で日本の国土を生んだ神だ。初めに淡路島を生み、その次に四国。そして隠岐島、九州、壱岐島、対馬、佐渡島。最後に本州。その後にも6の島々を生んだという。


「その世界が私自身の手で穢れていく。黄泉国の穢れのせいだけではない。それが私の誓い、私の望みだったから。私がいる限り、世界の乱れは終わらない。いずれ死の穢れが世界を覆い尽くし、美しかった世界は死んでしまう」


 そう続けた黄泉津大神の美しい顔は、悲しさと悔しさに満ちていた。颯は混乱する頭を働かせ、黄泉津大神を原因として世界に死の穢れが広がっていくのだと理解する。その結果、世界が死の穢れに汚染され、いずれ黄泉国のようになってしまうのではないかとも。


「私は私を止めてほしかった。けれど、あなたはいなくなってしまった。私を止められるのはあなただけなのに」


 やや俯きがちになりつつあった黄泉津大神がまっすぐ前を、颯をしっかりと見据えた。それまでのように颯を通して誰か、それこそ伊邪那岐命を見ていたかのような気配は立ち消え、その瞳は颯だけを映していた。


「だから私はあなたを探した。我が夫、伊邪那岐命の魂を持つあなたを」


 黄泉津大神が、否、伊邪那美命が核心に触れた瞬間だった。颯の瞳が困惑で揺れる。何を言われているのか、わからなかった。


「僕は……」


 それ以上、颯の口は動かない。黄泉津大神の言葉を額面通りに受け取れば、颯こそが伊邪那岐命の生まれ変わりということになる。しかし、颯自身には何の実感もなかった。


 確かに今も手に馴染む天之尾羽張あめのおはばりは、かつて伊邪那岐命の剣だったということだが、だからといって、生まれ変わりなどというオカルト染みた話を即座に信じられるほど、颯は柔軟な頭をしていなかった。


 とはいえ、紛うことなき女神の言葉を笑い飛ばす訳にもいかないような気もした。しかし、国生みの女神は颯に根拠を示すことも、真偽を問うことも許さない。続いた言葉が、颯の心と体を凍り付かせた。


「私を殺して」


 颯はどこまでも真剣な伊邪那美命の目から視線を外すことができない。颯が固まっていると、女神は伊邪那美命だった頃の自分が色濃く出ている間に殺すよう願った。


「私がこんなにも苦しんでいるのに、何も覚えていないあなたが憎い」


 何も言えずにいる颯に、女神が薄く微笑んだ。


 ただ真菜の無事を願ってここまでやってきた颯にとって、予想外過ぎる展開だった。颯は混乱する頭でどうすべきかを考えるが、自分に伊邪那岐命の魂が宿っていると言われてもピンと来ない。けれど、伊邪那美命に関しては思うところがないわけではなかった。


 約束を破って見せたくなかった姿を見られ、それを謝罪するどころか逃げ出した夫。伊邪那美命の話が正しいのなら、伊邪那岐命はその後に再びこの地を訪れたことになるが、結局和解には至らず、おそらく戦いの末に伊邪那美命は自ら夫をその手にかけたということだ。


 裏切られた怨みはあっただろうが、それでも愛していた夫を手にかけた伊邪那美命の心中は察するに余りある。それが愛の結晶とも言える国土の、世界のゆるやかな死に繋がるというのだから、余計だ。


「他に、殺す他に方法は――」

「ありません」


 元々、颯の目的は攫われた真菜の奪還であり、黄泉津大神を倒すことではない。黄泉津大神自身の申し出で、倒すことがイコール元の時代に帰ることになってはいたものの、何も、殺したいわけではなかった。しかし、黄泉津大神は、伊邪那美命は、有無を言わせず、颯に早く殺すよう催促する。伊邪那美命が自身の胸の辺りを掴むように押さえた。


「早く。もう時間が――」


 颯は表情を歪め、苦悶する白装束の女神に近付いていく。近付かざるを得なかった。


「お願い。急いで――」


 伊邪那美命が崩れるように膝をつき、胸を強く押さえる。迷っている暇はなかった。けれど、明らかに苦しみ何かに耐えている女神を前にしても、颯は決断することができない。


 黄泉津大神が長髄彦ながすねびこなどの世の乱れの原因であるならば、願いを叶えるべきだと頭では理解していたが、今まで化け物の親玉のように、それこそ邪神のように思っていた黄泉津大神の人間的な一面に触れてしまい、女神ではあるものの、颯は“人”だと感じてしまった。


 更に今の姿が人と変わらないとなれば、人殺しの忌避感は避けられない。いくら頭で目の前の女性が化け物だと思い込んで無理やり剣を振り被っても、振り下ろすことはできなかった。


「早く――」


 伊邪那美命が、もがき苦しむ。早く殺してと、鬼気迫った表情で訴える。なぜか、辺りが暗くなったような気がした。


「殺して――」


 颯の心臓がかつてないくらいに早鐘を打つ。息が荒くなり、過剰に体を巡る酸素と死の穢れが颯の思考力を奪っていった。


 伊邪那美命がうずくまり、それでも苦しげな顔を颯に向けて懇願する。もう限界だった。


「お願い――殺してぇええ!!」

「うわぁああああ」


 悲痛な絶叫に導かれるように、颯は咆哮と共に剣を振り下ろした。

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