3-4.穢れ

 黄泉比良坂よもつひらさか黄泉国よもつくにの境界を越える。洞窟を抜け、視界が一気に広がった。


 紫。それがはやての死者の国に対する第一印象だった。土も草も木々も、目に映る様々なものには毒々しい紫のまだら模様が浮かんでいた。


「明るい……?」


 篝火かがりびの明るさではない。道なりに連なった篝火は黄泉比良坂の終端で途切れている。それにもかかわらず辺りが見渡せるくらいに明るいことを不思議に思った颯は、ふと顔を上に向けた。


 颯が息を呑む。広大な地下空間の遥か上方の天井が、仄かな紫色の輝きを放っていた。そればかりか、うっすらと紫の雲のようなものも見える。


「こちらにございます」


 黒雷が相変わらずマイペースに案内を続ける。黒い大蛇の首の先は小高い丘になっていて、その下に鳥居が見えた。颯は内心で戦々恐々としながら黒雷の後を追った。


「う……!」


 颯が左手で口を押える。鳥居に近付くにつれ、死の気配を色濃く感じた。周囲の空気すらも紫色になったような気がした。


「颯様、おそらくこの紫のもやは死のけがれ……。お気を確かにお持ちください」


 鳥居から見上げる丘の上方が、紫で曇って見えた。沙々羅が言うには、黄泉国の至るところに存在する紫色は可視化するまでに濃縮された死の穢れで、特に大気中の死の穢れを体内に取り込むと“邪”と似た作用を及ぼす可能性が高いとのことだった。それは即ち、最悪の場合、薙と同じ末路を辿りかねないということだ。


 幸い、破邪の秘術の一端を修めた颯らは今のところ気分が悪くなる程度で済んでいるが、常人では時を待たずに鬼と化すか、そうでなくとも正気を保てないほどだという。


「母がお待ちにございます」


 黒雷が蛇の体を縦にくねらせながら、器用に石の階段を上っていく。紫の靄に躊躇なくその身を潜らせる大蛇を、颯たちは慌てて追う。大蛇が長い胴体を引きずる音と3人の足音だけが、やけに大きく響いた。


 一段一段、颯はしっかりと踏みしめる。この階段は真菜へと続く希望の階段なのか、それとも死刑台へ繋がっているのか。どちらにせよ、颯の胸は早鐘を打つのを止められなかった。


 三人が階段を上り終えると、紫の靄の向こうに一際大きな鳥居が見えた。見上げんばかりに巨大な鳥居。その下を三人が潜ろうとしたとき、いくつもの雷鳴が轟き、7色のいかづちが天より舞い降りた。


 衝撃が靄を吹き飛ばし、開けた視界に7体の、いや、7柱の化け物が現れる。その中には埃宮えのみやで撃退した化け物や薙の館で土中から姿を見せた化け物、それに、先ほど戦った火雷ほのいかづちの姿もあった。


 黒い大蛇が一気にその体を膨れ上がらせ、その7柱に加わった。それによって計8柱。言わずと知れた、八雷神やくさのいかづちのかみの勢揃いだった。


「この先におわすは我らが母。偉大なる黄泉国の統治者なり」


 黒雷ではない。扇状に立ち塞がる8柱の中心に位置し、随一の巨体を誇る2足の化け物だった。死の穢れにも似た青紫の鱗を持つ大蛇が鎌首どころか極太の長い体の半分ほどを持ち上げ、それを恐竜のような強靭な2本の足が支えている。蛇の頭には怒りに満ちた武者のような顔が載っていて、顎から伸びる白いひげは古より伝わる中華圏の龍を思わせた。


 そして、最たる特徴として、鎧のように強固な鱗がびっしりと並ぶ2本の腕を持ち、片手に長大な片刃の直刀を携えている。


「これより先にけるのはただ一人。何人なんぴとたりとも母の許しなくこの鳥居を潜ることはまかりならん」


 大きな雷が落ちたかのような重低音が頭上から降り注ぐ。強者然とした髭の化け物の冷たい視線は颯だけを見据えていた。


「そんな……!」


 沙々羅が抗議の声を上げかけるが、龍を思わせる化け物から放たれる威圧感が膨れ上がり、颯は左手で沙々羅を制する。


「沙々羅、五十鈴も。ここで待っていてほしい」

「しかし……!」

「無理に通ろうとすれば八雷神やくさのいかづちのかみと戦いになる。でも、僕だけなら争うことなく先に進めるんだ。そうですよね?」


 颯が沙々羅と五十鈴媛に言い聞かせるように告げてから、髭の化け物を見上げた。いくら銅鏡で弱点が見えるとはいえ、ほとんど無限に蘇る8柱の雷神を相手取るのは得策とは言えなかった。


「鳥居を越えぬ限り、その者らの命は、我、大雷おおいかづちの名の下に保証しよう」


 予想通りの答えが返ってきて、颯は振り返る。沙々羅も五十鈴媛も綺麗な顔を苦渋に歪めていたが、颯が決意を持って見つめれば、二人はゆっくりと頷いた。


「絶対、真菜を助けてくるよ」

「はい。お気をつけて」

「ええ。信じているわ」


 颯も頷きを返し、二人に背を向ける。最後に深呼吸一つを残し、颯は大きく一歩を踏み出した。


 禍々しい紫の映える鳥居を潜る。そのまま大雷の横を通り過ぎんとしたとき、再び重低音が颯の頭上から落とされた。


「我らが母は正面に見える大柱の下におわす」

「わかりました」


 颯はそれだけ返し、仲間たちの視線を背に感じながら真っ直ぐ歩を進める。鳥居の向こうは平らな大地が広がっていて、目測で数百メートル先に天を貫かんばかりの巨大な1本の柱が屹立している。


 もはや黒と呼んでも差し障りがないほど濃い紫の柱。まるでこの死者の国の天井すべてを支えているかのような極太の柱の最下部に、人影が見えた。


 その人影は柱に括りつけられ、身動きが取れないようにされている。颯が徐々に足を速める。それはすぐに全力疾走へと変わった。


「真菜……! 真菜!」


 見間違えるわけがない。最愛の妹がそこにいた。颯は何度も大声で呼びかけながら、一直線に真菜の元へ駆ける。


にい、さん……」


 か細い声だった。けれど、確かに聞こえた。ひどく懐かしい声だった。


 真菜が生きていた。そう確信した颯の心の底から歓喜が湧き上がる。目頭が熱くなり、まだこの腕の中に抱きしめられていないことをもどかしく感じた。


 あと少し。あと少しで真菜の元に辿り着く。もはや、颯の目には真菜しか映っていなかった。しかし。


 兄妹の再会をはばむかのように、白装束の女性が立ち塞がった。生気を感じさせないほど透き通った白い肌の女性。無言で佇んでいるだけなのに颯は大雷おおいかづちよりも遥かに強大なプレッシャーを感じ、足を止めた。止めざるを得なかった。


黄泉津大神よもつおおかみ……」


 死の気配が、辺りに満ちていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る