3-5.黄泉津大神

 はやてと真菜の再会の前に立ちはだかった白装束の女性。黄泉津大神よもつおおかみと思しきその女性は、ぞっとするほど美しかった。


 冷たい美貌。


 しかし、颯は黄泉津大神の美しさに感じ入るよりも、大きな恐怖が先に立った。美しさの奥に、底知れぬ力を感じる。これまで相手にしてきた鬼や八雷神やくさのいかづちのかみとは一線を画すであろう存在感は、颯が思わず膝をつきそうになるほどだった。


 そうならなかったのは、ひとえに、その向こうに真菜がいるという事実のおかげだ。颯は恐怖に耐えながら黄泉津大神を見据える。その瞬間、颯の背筋を冷たい感覚が這い上がった。冷たい何かが脊椎を越えて脳髄に到達すると、颯の脳裏に一瞬だけ、ここではない、いくつかの景色が浮かんだ。


 大きな柱を回って対面した全裸の美しい女性。薄暗い紫の中で蛆にたかられている朽ち果てた醜い女性。


 垣間見たそんな景色に颯が疑問に思う間もないまま、黄泉津大神がゆっくりと口を開いた。


「この時を待ちわびた」


 悲願の叶った歓喜に打ち震えるようでもあり、積年の怨みを込めた呪詛のようにも聞こえる声だった。


 颯はこのような声に聞き覚えがあった。


「まさか、あの時の……」


 颯の脳裏に、三輪山での出来事がよみがえる。豪雨の中で聞いた記憶の中の声は、先ほどの声と同じように思えた。


 それが意味することはただ一つ。目の前の女性、否、女神こそが、颯と真菜をこの時代に呼び寄せた張本人だということだ。


「僕たちをこの時代に連れてきたのは、あなただったんですね」

「やはり覚えておらぬか」


 噛み合わない会話に、颯は眉をひそめる。冷たい美しい顔に、深い失望の色が浮かんでいた。黄泉津大神が腰を捻って振り返る。颯の視界に、大柱に括りつけられた真菜の姿が映った。


「この者を欲するか」


 黄泉国よもつくにを統べる女神が、颯に向き直る。


「欲しい!」

「なぜだ。なぜその身を死の淵に置いてまで、この者を欲する」

「かけがえのない家族だから」


 颯が即答する。黄泉津大神が問う理由はわからずとも、答えは決まっていた。暫し沈黙する女神を、颯は真摯な瞳で見つめた。


「魂に刻まれた記憶まで失くしたわけではないか……」


 黄泉津大神が切なげに小声で呟く。颯はどういう意味か尋ねたかったが、颯より先に女神の口が再度動いた。


「ならば、我を見事倒して見せよ。さすればそなたの道は開かれん」


 いぶかしがる颯に、死者の国の女神は薄っすらと笑みを浮かべ、自らを倒せば二人揃って元の時代に帰すと告げた。


 元々真菜を取り返すために黄泉津大神との戦いも辞さない覚悟でいた颯にとっては願ってもない申し出だった。目の前の彼女を倒しさえすれば真菜と共に元の時代に帰してくれるというのだから、その壁の高さを度外視すれば最良の展開だと言える。しかし、その意図がわからない。


「何を迷う必要がある。我を倒さぬ限り、死の穢れは亡者どもと共に黄泉比良坂を越えて広がっていく。日に日に死者は増え、その数は日に1000の比ではなくなるだろう。さすれば如何に日に1500の子が生まれようとも、やがてすべての命は死に絶える」


 颯はハッと息を呑む。沙々羅の言っていたように死の穢れが“邪”と同質であるというのなら、この言葉が決して脅しではないと理解できた。それどころか、地上で起こっている鬼の大量発生や、それこそ長髄彦ながすねびこの猛威も、死の穢れが、黄泉津大神が原因であるかもしれないのだ。


 颯の見据える先で、白装束の女神が不敵な笑みを浮かべていた。颯は天之尾羽張あめのおはばりを構える。


「それで良い」


 黄泉津大神が満足げに呟いた。その直後、白装束の中の美しい顔と肢体が見る影もなく変貌を遂げた。色白だった肌は腐敗したかのように変色し、ところどころに紫のまだら模様が現れる。そして2本の腕が4本の長い蛇へと変わっていた。


 颯は人の姿より戦いやすくなったと思う反面、黄泉津大神から溢れ出る禍々しいオーラを感じ取って怯んでしまう。


『どうした。かかってこぬのなら、こちらから行くぞ』


 萎縮いしゅくする颯に、黄泉津大神が蛇の腕を伸ばす。うねうねした2本の蛇の腕が颯に迫る。


 颯は慌てて剣で受けようとするが、紫の蛇の腕はまるでそれ自体が生きているかのように器用に剣を回り込み、したたかに颯の脇腹を打ち据えた。


 声にならない苦悶の叫びを上げ、颯は地に倒れ伏す。


 しっかりしなければ。颯はそう思いながら立ち上がるが、その度に蛇の腕が襲い来て、颯は何度も地に伏す結果となった。全身が痛みで悲鳴を上げていた。


『足りぬ』


 失望と憎悪を湛えた言葉が響く。


『そなたの力はその程度か。ならば――』


 一歩も動くことなく前方に2本の蛇の腕を伸ばしていた黄泉津大神が、初めてもう2本の蛇の腕を動かした。しかし、前ではなく後ろへ。


 紫の2匹の蛇が真菜の眼前に迫っていた。


「やめろぉおお!」


 ようやく立ち上がった颯がえた。颯の闘志に呼応したかのように、天之尾羽張の根元から炎が巻き上がる。轟々と燃え盛る炎が、真の姿を現した長大な天之尾羽張を覆い隠していた。


 颯が黄泉津大神に向かって駆け出す。禍々しい女神は真菜へと伸ばした蛇の腕を引き戻し、4匹の蛇を颯へと差し向けた。


「邪魔だ!」


 迫りくる蛇を、颯は炎を纏った剣で振り払う。そのまま一目散に突進し、裂帛の気合と共に天之尾羽張を大上段から振り下ろした。人の姿であればともかく、今の姿を前に颯が躊躇することはない。ここに至るまでに幾度もの鬼らとの戦いを経てきた颯は、この時代に来たばかりの頃の颯ではなかった。


 この一振りでけりをつける。そんな思いを込めた一撃だった。けれど、その思いは神には、いや、女神には届かなかった。


 黄泉津大神を覆う半透明のどす黒さを感じる濃い紫の光の障壁。颯の一撃がその壁に触れた途端、炎は霧散し、剣は衝撃をもって弾き返された。


 間髪入れず蛇の腕が襲い、颯はもんどりうって再び地に倒れ伏す。


『まだ足りぬ』


 失望に満ちた声が、颯の頭上から降り注いだ。

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