第10話 反撃開始

 薄い雲が広がる水曜日の午後、穂乃香は楡駅近くの国道沿いにある自動車整備会社で、以前に導入したシステム保守契約の更新について打ち合わせをしていた。


「それじゃあ、今年も同じ条件で御社に保守をお願いしますよ」


「かしこまりました。まことに、ありがとうございます」


「いえいえ、私のような年寄りが変にごねて、桂木さんみたいに若くて活躍してる方の足を引っ張りたくないですからね」


「いやいや、そんな滅相もありません。それに、私なんてまだまだですし」


「またまた、ご謙遜を」


 愛想良く微笑むと、向かい合った丸顔の担当者も大きな目を細めた。


「聞きましたよ、ロイヤルホテルさんのシステム入れ替え、御社が取ったそうじゃないですか。この辺りの案件なら、桂木さんのご担当でしょ?」


「さすが、綿貫常務。耳が早いですね」


「まあ、うちもロイヤルホテルさんの送迎車の整備はずっと狙ってますからねぇ。よく顔を出して情報だけは逐一入手してるんですよ」


 綿貫と呼ばれた男性は白髪頭を掻いた。


「いやあ、でも、これが中々難しいのなんの。いつも青白い顔をした担当者に、『それでは一度社内で検討いたしますんで』って言われて、はいそれっきり」


「あはは、それは手強いですね」


 相槌を打ちながら、青白い顔をした担当者が記憶を辿る。思い当たる人物は、すぐに見つかった。システム導入の時に世話になった総務部長の常川だ。


「ロイヤルホテルさん、代表が名誉職に引退なさって新体制になりましたし、上場も目指して色々と改革をしてるって話も聞いてるんで、チャンスとは思ってるんですけどね……、桂木さん、口利きとかしてもらえません?」


 ギラギラとした目が上目遣いで穂乃香を見つめた。いつもなら、適当に言葉を濁してこの場を去るところだ。しかし、今日ばかりはこの言葉を待っていた。


「分かりました。なら、担当の方と話をしてみますよ」


「そうですよね、やっぱり難し……え?」


 大きな目が更に大きく見開かれる。


「御社には長年お世話になっていますんで、たまにはちゃんと恩返しをしないといけませんからね。ちょうどこの後ロイヤルホテルさんに伺いますし、そのときにお話をしてきますよ」


 できる限り穏やかに伝えると、丸顔に当惑した表情が浮かんだ。


「えーと……、本当によろしいんですか?」


「ええ、もちろん。ただ、最近我が社もノルマが厳しくて、ほんの少しでも案件をとってこいと上司にどやされてまして……、ロイヤルホテルさんとのお話がまとまった暁には、こちらにも紹介手数料のようなものをご検討いただきたいのですが」


「ええ、それはもちろん! では、是非お願いいたします!」


「はい、尽力させていただきますね」


 目を輝かせる綿貫に向かって微笑みながら、穂乃香は膝に置いた手を強く握りしめた。



 

「いやぁ、桂木さんのおかげで、みんなシステムにすぐに慣れてくれましたよ」


 整備会社を後にしたその脚で向かったホテルの事務室で、総務部長の常川が青白い顔に微笑みを浮かべた。


「いえいえ、皆さんが体勢変更で忙しい中でも、熱心に操作方法を覚えてくださったおかげですよ。導入が完了してからしばらく経ちましたが、なにか問題はありませんか?」


「ええ、まあ、システムの方には、問題はないんですけど、ね」


 切れ長の目が視線を泳がせながら言葉尻を濁す。システムには全く関係ないけれど、愚痴を聞いてほしい合図だ。


「なにか、弊社の対応で問題がございましたでしょうか?」


「いやいやいや!」


 大げさに不安げな表情を浮かべて聞くと、常川は素早く首を横に振った。


「御社には、本当に丁寧に対応していただいて、感謝しきれないくらいですよ。ただ、なんというか、昨今の新体制への変更で、色々とゴタゴタしていまして。御社には、本当にまったく関係のない話なのですが」


 ここで、そうですか、と引き下がっては、今日ここへ来た意味がなくなってしまう。


「もしよろしければ、お話を伺ってもよろしいですか?」


「いえ、でも、ご迷惑になってしまいません?」


「迷惑だなんて、そんな、とんでもない! ひょっとしたら、弊社でお役にたてるかもしれませんし」


「そうですか、そう言っていただけるなら……」


 青白い顔に微笑みが浮かぶと、穂乃香は内心ほくそ笑んだ。心配ごとの見当は、もうついている。


「実はですね、うちは創業当時から同じ整備会社に、送迎バスや送迎車の整備を頼んでいるんですよ」


「ああ、そうなんですね」


 知っている。牧村の整備会社のホームページに、主要取引先としてロイヤルホテルの名が記載されていた。


「はい、ただその整備会社というのが法外……、というほどでもないのですが、その、年間の保守料を取っているのに、いざ定期点検になるとなにかにつけて、細々とオプション料のようなものを要求してきまして」


「ええ!? それは、なかなか厄介ですね」


「そうなんですよ。先代の社長さんが亡くなって息子さんに代替わりしてから、そんなことばっかりで。新体制になってから真っ先にそこの契約を改めたかったんですが……ね。会長が、先代には大変お世話になったからと、難色を示していまして……」


「そうだったのですか……」


 それも知っている。地域密着型の匿名掲示板で検索した牧村の整備会社への不満の中に、ホテルの従業員の物と思われる同様の内容の書き込みがあった。


「しかも、その整備会社の二代目というのが、ちょっと、なんと言いますか、やんちゃが過ぎるといいますか、悪い噂が色々とありまして……、まあ、その点は会長も認識しているんですが、警察沙汰が起こったわけではないから、と……」


「そうなんですか……、あ! ひょっとして、その整備会社さんて、牧村社長のところだったりします?」


 たった今気づいたふりをしながら首をかしげると、切れ長の目が見開かれた。


「ええ、そうですが……、ご存じなんですか?」


「はい、うちは整備会社向けのシステムなんかも取り扱ってますからね。牧村さんのところと取引はないんですが、噂はよく耳にしますよ。それでですね……」


 穂乃香はそこで言葉を止め、わざとらしく辺りを見渡してから、テーブルに身を乗り出した。


「ここだけの話、あそこの社長さん、近々傷害で訴えられるって話ですよ」


「えぇ!? 本当、ですか!?」


「はい、信頼できる筋からの話なんで、間違いはないかと」


 信頼できるもなにも、自分達が訴えるのだから間違いはない。そう思いながら、声を潜めて話を続けた。


「御社は今、上場に向けて準備を進めてますよね? なら、私がどうこう言う話ではないのかもしれませんが、そういった所との取引は、ちょっと……」


「そう、かもしれませんが……、契約を切ってしまっても、新しい整備会社を一から探すのは……」


 話から契約を切ること事態へのためらいは感じられない。ならば、と指を組んで笑顔で首をかしげた。


「実はですね、私の担当客先にも自動車整備会社さんがありまして、そこの常務さんがかねがね御社とお付き合いをしたいとおっしゃっているんですよ。もしよろしければ、先方にお話をいたしましょうか?」


「そう、ですね……、なら、お話だけでも……、そうすれば、社長は話を進めたがるでしょうし……、準備さえしてしまえば会長も……」


 青白い顔が口元に指を当ててブツブツと独り言をこぼす。周囲のことは目に入っていない様子だが、問題はなかった。むしろ、全てが上手くいっている。穂乃香は再び手を膝に置き、キツく握りしめた。

 

 仕事を終えて自宅に戻ると、男性物のジャージを着た美優が、足音をたてて玄関に出迎えにきた。


「おかえりなさい」


 微笑みを浮かべる顔には、白い湿布が貼られている。痣が剥き出しにいるよりはましかもしれないが、それでも痛々しさを感じる。


「ただいま。病院には行ってきた?」


「はい。打撲と内出血でしたが、ちゃんと、診断書ももらえましたよ」


「それならよかった。これから色々と手続きが続くけど仕事は大丈夫?」


「大丈夫ですよ。マネージャーに事情を説明したら、今まで有給も全然使わなかったんだし、遠慮するなって言われましたよ」


「じゃあ、私も有給取れたし明日は弁護士事務所と、服とか必要な物の買い出しに行こうか」


「はい……、色々と付き合っていただいて、本当にありがとうございます」


「だから気にしないでって。これも口止めの一環なんだから」


「あはは、そうでしたね」


 この屈託のない笑顔を浮かべる顔に二度と痣なんか作らせない。そう決意しながら穂乃香は玄関を上がった。

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