第9話 そんなのは嫌だ

 日付が変わって間もない都内にあるマンションの一室。シーリングライトに照らされた明るい居間で、穂乃香が革張りのソファーに腰掛けて営業戦略に関する本を読んでいた。しかし内容が頭の中に入ってこない。いっそのこともう眠ってしまおうかと思ったとき、テーブルに置いたスマートフォンが震えだした。


 画面には「佐々木美優」と表示されている。


「桂木さん?」


 通話アイコンをタップすると同時に、か細い声が耳に入った。


「うん」


「よかった繋がって」


 安堵のため息が混じった声の背後から、遮断機の警報音が聞こえる。


「なんだか少し話したくなっちゃって……、いま少しだけ時間もらえますか?」


 消え入りそうな声に遮断機の警報音が被さる。


「大丈夫。今、どこだ?」


「楡駅近くの、踏切です」


 声のすぐ近くから、列車の通り過ぎる音が響く。ほんの数歩先、と思えるくらいの距離から。背筋に冷たい物が走り鼓動が早まっていく。


「今から行くから。駅の西改札口で待ってて」


「いえ……、このまま少し話せれば、それで……」


「いいから、駅で待ってて!」


 張り上げた声に、息を飲む音が返ってきた。


「わかり、ま……」


 全て言い終わる前に、声は途切れた。スピーカーからは、ノイズのみが聞こえてくる。

 穂乃香は着替えて家を飛び出し、大通りでタクシーを拾った。暗い車内でスマートフォンを見つめても、ニュースアプリの通知以外は表示されない。

 充電が切れただけだ、心配することはない。そう心の中で繰り返すが少しも落ち着かない。


「お客さん着きま……」


「ありがとうございます。じゃあ、これで」


「え?」


 必要以上の一万円札を渡され戸惑う運転手をよそにタクシーから飛び降り、未だ人で賑わっている駅前を走り抜ける。

 たどり着いた西改札口も、東京方面行きの終電を逃した人で混み合っていた。目を凝らして辺りを見渡しても美優の姿は見当たらない。


「……桂木さん?」


 不意に、か細い声が背後から聞こえた。振り返ると、見覚えのある若草色のワンピース姿が目に入った。

 最悪の事態は避けられたが、あまり状況が良くないことは髪の乱れやうっすらと腫れた頬から一目瞭然だった。


「美優……」


 名前を呼ぶと虚ろな表情に微かな笑みが浮かんだ。、週末に青空の下で見た笑顔とは似ても似つかない


「すみません。こんな遅くに、呼び出してしまって」


 端が切れた唇から、弱々しい言葉がこぼれる。


「……別に、構わないよ。ひとまず私の家に行こうか」


 酷い目に遭わせた原因から一刻も早く遠ざけなくては。そんな思いが恥も外聞も忘れさせた。


「……」


 美優が口を噤んで、小さく頷く。


 足早に駅を後にし乗り込んだタクシーのなか、穂乃香はずっと震える華奢な手を握り続けていた。


「大丈夫。大丈夫だから」


「……」


 エンジン音と無線の声に穏やかな声が交じる。その度に手の震えは徐々に落ち着いていった。


 それから一時間ほどで、二人は都内のマンションにたどり着いた。


「はい、これ」


「ありがとう、ございます」


 まだ微かに震える手が、温かい紅茶の入ったマグカップを受け取る。


「ミルクと砂糖は?」


「いえ、大丈夫です……」


「そう」


「はい……」


「……」


「……」


 明るい居間の中、空調の音だけが微かに響く。

 何があったか聞くべきか。それとも、そっとしておくべきか。声をかけあぐねていると、マグカップから離れた唇が小さく動いた。


「あの、本当に、いきなり、呼び出し、て……、しかも、押しかけて、しまって、す、みません」


「さっきも言ったでしょ。別にかまわないって」


 なるべく穏やかに微笑みながら答えると、強張った表情がほんの少しだけ緩んだ。


「ありがとう、ございます」


「いえいえ。それで、一体なにがあったの?」


「……」


「無理に答えろとは言わないけど。楽になるなら、いくらでも吐き出して構わないから」


「……」


「愚痴を吐き出すだけでも、少しは楽になるんじゃないかな?」


 微笑みながら首をかしげると、表情がまた少し緩む。


「そう、ですね。あの、何から、話せばいいのか、とは思うのですが……」


 震える唇が、今まで降りかかってきたことを少しずつ紡ぎ出した。


 壊れてしまった家庭。

 牧村から受けた暴行。

 人並みに幸せだった暮らし。

 積み上がった酒の空き缶。

 諦めなくてはいけなくなった進学。

 自分を裏切った恋人。

出ていった母親。

 居間に響き続けるいびき。

 家族で出かけた動物園。

 自分が我慢をしていれば全てが元に戻るかもしれない、という絶望的な希望。

 崩れた酒の空き缶と父親の怒号。


 断片的で時系列も乱れた話だったが、穂乃香は相槌を打ちながら聞いていた。詳細は把握できなくても、ろくな目に遭わなかったということはすぐに理解できる。


「……それで、今までしてきたことが、全部、無駄に、思えて、出てきちゃったんです。あはは、薄情ですよ、ね、私。我慢してれば、お父さんは、元に戻るかも、しれなかった、のに」


 嘲る様な嗚咽混じりの声に、自然と小さなため息がこぼれた。


「笑ってる場合?」


「あはは、でも、こうなったのも、私が、お金と苦労を、かけてたからだって、お父、さんが……」


「……」


 不幸なヤツは自分に原因がある。だから、放っておけばいい。

 今もその持論は大きく変わっていない。

 それでも。


「……だからって、『全部自分のせいだからしかたない』で、終わらせていいの?」


 美優の力にはなりたいと思った。


「本当に、それでいいの?」


「……」


 目を真っ直ぐに見つめて再度問いかけると、美優は涙をこぼしながらうつむき、首を横に振った。待ち望んでいた反応に、穂乃香の口元が緩む。


「よし。じゃあ、全力で美優の助けにならないとね」


「え……?」


「まずは、あの牧村に報いを受けさせてやりますか」


「あ、あの……?」


「大丈夫。少し時間はかかるけど必ず成功させるから。まずは」


「ちょ、ちょっと桂木さん!?」


 本人を置いて進んでいく話に待ったがかかった。


「どうしたの? やっぱり、先にお父さんのほうの対応にする?」


「いえ、そうじゃなくて……、なんで、力を貸してくれるんですか?」


「なんでって、それは……」


 君の笑顔をもっと見たいと思ったから。そんなキザな台詞を咄嗟に言えるわけもなく、視線が宙を泳ぐ。しかし、言い訳はすぐに見つかった。


「……口止めの一環に、決まってるでしょ?」


 不敵に笑いながら答えると、向かい合った顔に呆然とした表情が浮かんだ。

 言い訳とはいえ、重い話をしているときに失禁の話を持ち出すのは、流石にふざけすぎたかもしれない。


「ごめん、えーと、今のは場を和ませようと……」


「……あはははは!」


 必死の言い訳をかき消すように笑い声が居間に響いた。


「ああ、そうだ、そうでした。私たちの関係は、口止めするほうと、口止めされるほう、でしたもんね、あはは!」


「……悪かったわね。ロマンチックさの欠片もない関係性で」


 拗ねたように口にすると笑顔が更に深まった。


「い、いえ、君のためだから、だとか言われるより、は、ずっと、納得がいきますよ」


 美優が目を指でぬぐいながら、呼吸を整える。


「なら、口止めをしっかりしてもらわないと、ですね」


 屈託のない笑顔を向けられ自然と笑顔が浮かんだ。


「うん。言いふらそうなんて気が少しもなくなるくらい、完璧な口止めにするから」


 おどけた表情で答えたが、本当は口止めなんかなくても失禁のことを言いふらさないのは分かっている。それでも、全ての片がつくまでは彼女が納得したこの馬鹿馬鹿しい関係性を続けよう。穂乃香はそう心に誓った。

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