第8話 一人でどうにかしないといけないこと

 日の落ちた夜の住宅街、背中を丸めた美優が一人で歩いていた。髪は乱れ、頬はうっすらと腫れ、若草色のワンピースが皺に塗れている。


 そのまま、足を引きずるように進み、一軒の家にたどり着く。扉を開けると、酒、生ゴミ、体臭、その他諸々が混じった悪臭が鼻を突いた。それでも眉一つ動かさずに玄関を上がると、居間のほうから大きないびきが聞こえてきた。


 数年前までは、「おかえり」という声が迎えてくれたのに。


 全てが変わってしまったのは、高校二年の冬だった。

 毎日自分が起きる時間には家を出ていた父が、登校する時間になってもずっと居間で横たわっているようになった。しかも、何日もずっと同じパジャマを着て。以前ならば休みの日も、すぐに外出できるような服に着替えていたのに。


 変化が起きてから少し経ったある日、母親がいびきの響く居間で、小声で事情を話した。新しくやってきた会社の役員とそりが合わずに、自主退職に追い込まれたと。


 不意に湧いて出た思い出に美優は首をふり、ブランド物の鞄を投げつけるようにポールハンガーに掛けた。今さら思い出しても仕方がない。それなのに当時のことが次々と浮かんでくる。


 しばらくすると、父親は居間に寝転がるだけではなく、朝から酒を飲むようになった。母親に対して、いきなり怒鳴りだすことも増えた。それでも、脇目も振らずに学校へ逃げ、家に帰ってからもすぐに自室へ籠もってしまえばよかった。大学受験も控えて居るのだし、親の問題は本人達に任せて、自分は勉強に専念してればいい。志望校に合格して、幼い頃からの夢だった教員になることが、一番の親孝行になるはずだ。今、余計な口出しをすることよりもずっと。


 自分にそう言い聞かせていた日々は、高校三年の初夏に終わりを告げた。


 水を飲んで落ち着こうと、居間の扉を開いた。その先では、常夜灯に照らされて酒の空き缶に囲まれた父親が、いびきをかきながら転がっていた。

 なるべく視界に入れないように、シンクに空き缶が積み上がったキッチンへと足を進める。


 ある日学校から帰ると、母親の姿が消えていた。そのかわりに、「必要なお金はこれでなんとかしてください」というメッセージと暗証番号が書かれたメモともに、銀行のカードが自室の机の上に置かれていた。自分たちが捨てられたということは、すぐに分かった。しかし、悲しさを感じることはなかった。それよりも、数日後に行われる奨学金の説明会に対しての不安の方が大きかったからだ。


 以前の父親ならともかく、常に酒に酔っている状態で必要な書類の説明をしたところで、なにか意味のある結果を得られるとは到底思えない。


 シンクに置かれた比較的汚れていないコップを手に取り、軽くゆすいでから水を注いだ。部屋の中には、相変わらずうるさいいびきの音が響き渡っている。


 結局、母親はそれっきり帰ってこなくなった。幸いなことに、日常生活に必要な金額はカードで引き出すことができた。税金や保険料もスマートフォンで方法を検索して支払った。父親が相変わらず空き缶に紛れていびきをかいていることに目をつぶれば、以前とそれほど変わらない生活を送れていた。


 ただし、大学への進学はどう考えても絶望的だった。


 ごっ、という音のあと、いびきはしばらく止まった。このまま、静かになってくれたら。そんな考えを振り払うように、水を一気に飲み干す。その途端、いびきは再び響きだした。


 担任に勧められて、一度だけ父親に奨学金の相談をしたことがあった。しかし、結果は予想していたとおりだった。酒臭い息を吐きながら、呂律の回らない状態で、意味の無い言葉を喚き散らされる。そんな状況を説明すると、担任は目を伏せた。中堅大学の指定校推薦を取れたんだけどな、という言葉が今でも耳に残っている。


 空になったコップを乱暴にシンクに置いても、いびきが止まる気配すらない。


 どうしようもない日々の中でも、僅かな救いはあった。当時交際していた恋人が、家庭環境が崩壊した後も側に居たからだ。変わってしまった父親のことも、出ていった母親のことも、進学を諦めなくてはいけなくなったことも、二人でいるときだけは忘れることができた。大学を卒業したら絶対に一緒になろう、という言葉を心から信じていた。


 近くの清掃会社に就職して一ヶ月ほど経った金曜の夜、恋人から「今からどうしても会いたい」というメッセージを受けとるまでは。


 いびきは、まだ続いている。


 まだ仕事に慣れきれず疲れていたが、絵文字もスタンプもついていないメッセージが気になり、「分かった」とだけ返信をした。直感的に、別れ話をされるのだと思った。学生の恋人と、勤め人の自分とでは生活が違いすぎる。しかし、実際の要件は、予想よりも遙かに最悪だった。


 指定された場所は「個室バー」と銘打たれた、路地裏の雑居ビルにある店だった。無愛想な店員に案内され個室に入ると、頬を腫らした恋人と、髪を金色に染めた大男、牧村の姿があった。唖然とする美優に対して、恋人は「この人は大学のサークルのOBだ。

 お金もあるし、これからはこの人が面倒をみてくれる」と告げて、足早に個室を出ていった。すぐに後を追おうとしたが、腕を引かれて黒い革張りのソファーに押し倒され、そのまま犯された。巨体に無理矢理開かされた脚や腹の中を殴りつけられるように突かれる痛みに悲鳴をあげ、体重をかけてのしかかられうめき声をもらすたび、目の間の顔が口を歪めて笑みを浮かべた。


 行為の後えずきながら泣いていると、牧村は面倒くさそうに一万円札を数枚投げつけ「金が要るんだろ? 出してやるから、いつまでもピーピー泣くな。処女でもないくせに」と吐き捨てた。それからの記憶は曖昧だが、投げつけられた一万円札を突き返せなかったことだけはハッキリと覚えている。


 いびきは、いつまでも響き続ける。


 ふらふらとした足取りで家に帰ると、父親が酒の空き缶にまみれた居間の床に横たわり、いびきをかきながら眠っていた。就職してからは、ある程度の金額をテーブルの上に置いて、できる限り視界に入れないように過ごしてきたが、その日は放っておくことができなかった。


 全部、コイツのせいだ。そんな呟きを繰り返しながら、気がつけば包丁を手に横たわる父親のすぐ傍に立ちすくんでいた。ゆっくりと上下する腹に目がけて、刃を振り下ろそうとしたところで、いびきがとまった。そして、目尻から一筋の涙がこぼれ、酒臭い寝息を吐いていた口元がもぞもぞと動き出した。


「美里……、美優……、すまない……」


 消え入りそうな、自分と母親に対する謝罪の言葉が部屋の中に響いた。

 

 明るくて清潔な家。

 和やかな雰囲気の食事。

 休日に連れていってもらった動物園。

 人並みのささやかな幸せ。

 

 ひょっとしたら、このまま自分が生活を支えていればいつか父親が正気に戻って、今までの平穏が戻ってくるのかもしれない。


 逃げずにこの生活を続けていれば、いつかはきっと。


「おい」

 

 気づけば、いびきが止まり、背後に父親が立っていた。


「あ、ごめん、起こしちゃった……」


「酒がなくなった」


 無理矢理作った笑顔にかけられたのは、数日家を空けたことや、薄らと腫れた頬や、口元の怪我に対する心配の言葉ではなかった。


 お父さんだって本当は元の生活に戻りたいと思っているんだ。

 私が頑張っていればいつかは全部元通りになるはず。


「……なに、それ。ふざけてんの?」


 奇麗事で抑えきれなくなった言葉がポツリとこぼれた。


「本当にいいかげんにしてよ! 私が今までどんな思いしてたと思ってんの!?」


 こぼれだした言葉は止まらない。


「アンタのせいで、大学に行けなくなって、毎日毎日キツい仕事をしなくちゃいけなくなて、見るだけで吐きそうになるようなヤツに媚び売らないといけなくなって……、私の人生メチャクチャじゃない!」


 酒で濁った目が軽く伏せられ酒臭い息を吐きだす口が微かに震えるなか、言葉がとめどなくこぼれ続ける。


「それなのに、自分はお酒のんで寝てばっかりで! 恥ずかしくないわけ!?」


「……うるせぇ!」


「きゃぁっ!?」


 怒号と共に突き飛ばされ、美優は床に倒れた。

 シンクに積み上がった空き缶が、音を立てて崩れる。


「人生がメチャクチャだぁ!? 誰に向かって言ってんだ! お前のせいでなぁ! 俺はなぁ! どんだけ金と苦労がかかったと思ってんだ! 恩が返せないって言うなら……」


 その後に続く言葉に備え、耳を塞ごうとした。しかし、腕がうまく動かない。


「……さっさとどっかで死んじまえ!」


 気がつけば、美優は鞄だけを持って家を飛び出していた。

 目の前では、踏切が赤い灯を点滅させながら、警報音を鳴らしている。

 自分さえ我慢していれば、いつか全てが元通りになると信じていた。しかし、そのいつかが決して訪れることはないと、思い知らされた。結局の所、全ては無駄だった。


 警報音は一定の感覚で鳴り続ける。

 あと数歩だけ前に進めば、無駄ばかりの生活を終わらせることができる。


 ――ブー、ブー、ブー


 突然、ワンピースのポケットに入れっぱなしだったスマートフォンから、振動が伝わった。取り出すと、充電の切れかかった画面に、穂乃香からのメッセージが通知されている。




「家のことは本当に一人でどうにかしないといけないの?」




 少し前に言われた言葉が、頭の中に蘇る。


「……」


 美優は震える指で画面を操作し、通話開始のアイコンをタップした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る