第8話 嵐の夜
ハイランドとの通話が終わった後、レムはじっとしていられなくなり病室の外に出た。
ベッドに居ると堂々巡りにしかならない思考が溢れてきてしまう。
レムは自分でも自覚できないほどの苛立ちを感じていた。煮え切らない自分への苛立ちだった。
レムはエレベーターに乗り、1階へ向かうボタンを押そうとしてやめた。
代わりに売店のある2階を押す。
散歩に行くことになると、レムは決まって自室の5階から1階に降りていった。
無意識レベルに落とし込まれた習慣。
そしてその度にエントランスの談話スペースに居るルミネと顔を合わせる。
だが、今ルミネに会うのはなんとなく気が咎める。
レムの悩みのきっかけには、その中心にルミネがいるからでもあった。
売店で飲み物でも買って、適当にぶらつこうと思った。
ただただ脳内に渦巻く思考のもつれをなかったことにしたかった。
レムはエレベーターを降り、売店へ向かう。窓に打ちつける雨の音が強くなってきた。
いつのまにか夕方に差し掛かろうとする時間帯だ。
人通りもあまりないので、落ち付いて買い物ができると思った。
「……あ」
「あっ!」
よりにもよって、ルミネと鉢合わせてしまった。
うすぼんやりとした意識で歩いていたので、気付かないふりをする間もなかった。
ルミネの手に提げたバスケットには買い溜めたのであろうお菓子が詰まっている。
レムの姿を見つけたルミネは、いつものように笑顔で小走りに駆け寄ってくる。
「何か買いにきたの?」
笑顔の中に少しだけいたずらっぽさが含まれている時は、何か提案してきたり誘ってきたりする時だ。
それがレムにはどうしょうもなく、わかってしまう。
「あのね、お腹空いたからお菓子買ったの。たくさんあるから下で一緒に食べない?」
いつものレムなら太ってもいいのか、とか、夕食前なのに看護師に怒られるとかいった、冗談交じりの皮肉を言いつつも乗ってやるところだった。
だが、今はとてもそんな気にはなれない。
迷ってばかりの自分とルミネの揺るぎない振る舞いとを比べて、その眩さに身を焼かれる気さえする。
「今、そんな感じじゃないから。……ごめん」
にべもない断りの言葉にぽつりと謝罪の言葉を付け加えるのが、今できる限りのレムの良心だった。
そのままルミネの表情を見ることも反応を追うこともなく、買い物のことも忘れて足早に去ってしまった。
レムは今乗ってきたばかりのエレベーターで戻るのもばかばかしい気がして、階段を一段飛ばしで駆け抜けて5階まで戻っていく。
己に思考する隙を与えないかのように息を切らせながら身体を動かす。
「はぁ、はぁ」
逃げるように自室に戻ったレムは、息を弾ませながらベッドに両腕をつく。
思うように身体が動かない。
階段を3階ぶん駆け足で登ったに過ぎないのに、レムの脚はもうがくがくと震えていた。
入院してからはほとんど運動していないために、体力や筋力は以前と比較にならないぐらい落ちていた。
(私のバカ……断るにしたって、なんかもっと、ちゃんと……)
それでもレムが気にするのは錆付いた身体のことではなく、ルミネに対しそっけない態度で断りを入れてしまったことだった。
自分の余裕のなさに嫌気が差す。
雨脚は強くなるばかりだった。
時折、轟音とともに雷の閃光が走る。嵐の予報というのは本当のようだった。
レムは壁にかかった時計を見て、そろそろ看護師が夕食を運んでくる時間であることに気付く。
息を荒げていると看護師に要らぬ心配をかけると思い、なんとか息を整えてベッドの上に戻る。
しばらくして夕食が運ばれてきたが、ルミネのことを考えると食事はあまり喉を通らなかった。
レムはルミネが傷ついていないこと、落胆していないことを望んでいる自分に気付いていた。
今までは周囲の人間は乗り越えていくべき敵か、そうじゃないかでしかなかった。
他人の心情を慮るなど、母親が死んでからのレムではありえないことだった。
病室のシャワーを浴び、下着と入院着を着替えている間も、不安と戸惑いで溜め息が出る。
寝る前のルーティンを終えた頃には、病棟は消灯間近になっていた。
消灯と言ってもレムの部屋は個室のため、明かりを点けたままでも良かった。
最近では看護師からも明かりのことで何も言われることはないため、安心して明かりを点けて寝られる。
寝て起きたら、朝には気持ちも少しは楽になっているはずだ。
そう思ったレムは、消灯を待たず横になろうとする。
突如の閃光――そして轟音。
レムは驚く間もなく、反射的に頭を抱えて身を屈める。
閃光のあとに炎のような赤い光が差し込み、それも一瞬のうちに消える。
残響を含んだ爆発音が落雷によるものだと理解するのに、レムは数秒を要した。
稲妻と雷鳴にほとんど時間差がない。
極めて近くに落雷があったようだった。
それだけならばまだよかった。
更に数秒後、レムの部屋の電燈は、ちかちかと数回明滅した後にふっと消えてしまった。
病室がにわかに暗闇に包まれる。
レムはその場に凍り付いたまま、大きく息を呑む。
背中から冷たい氷の塊が転げ落ちたかのように、一気に血の気が引く。
目の前が何も見えなくなって、何をしたらいいか、何を考えたらいいかわからなくなる。
レムの脳が忌まわしい記憶を呼び覚まそうとする。
そして記憶の想起を拒み、塗りつぶすかのように、恐慌と不安が内側から溢れてくる。
「嫌だ……いや……」
呼吸を整え、気持ちを落ち着けなければならない。
頭ではわかっている。
だが、レムの息は荒くなるばかりだった。足が震えて立つことすらままならない。
病室の外では看護師たちが慌ただしく動き回っているようだった。
聞こえてくる看護師同士の会話で、なんとなくの現況は把握できる。
非常用発電装置は機能しているが必要な医療機器に魔力を回すために、院内システムが病棟への供給を選択的にカットしているらしい。
復旧の見込みはある。だがそれだけだ。レムには何の慰めにもならない。
今目の前にある恐ろしい暗闇が、レムの思考の全てを支配していた。
レムはベッドの脇に屈み込み、膝を抱いて、ただただ耐える。
世界を拒むように目をぎゅっと瞑っても、肌が冷ややかな空気を通じて暗闇を感じ取る。
一体どれだけの間、そうしていただろうか。
それが5分であろうと2時間であろうと、レムにとっては永遠の責め苦に等しかった。
だがその苦しみのなか、レムは不意に自分の病室のドアが開く音を聞いた。
タイルをゆっくりと滑るスリッパの音。
レムはこの音を知っていた。
「レム、大丈夫?」
ルミネだった。
ルミネの声は極めて穏やかで、一切の深刻さを帯びていない。
暗闇の中でもいつものような笑顔をしているのだとわかる。
「ルミネ……どうして」
レムは急には状況を飲み込めなかった。
それでもルミネがレムを案じてわざわざ自分の病室からやってきたことはなんとか理解できた。
「ほら、前に暗いの嫌いって言ってたでしょ。だから、怖い思いしてないといいなって思って」
「……そんな、くだらないこと覚えてるなんて」
強がろうとしたが、どうしようもなく声が震える。
「ううん、くだらなくなんてないよ。誰だって苦手なもの、怖いものはあるもの」
ルミネはレムの肩を抱くようにして力を貸して、ベッドの端に座らせる。
そしてルミネも寄り添うようして隣に座った。
「大丈夫、大丈夫よ」
ルミネはほとんど囁くように言い聞かせながら肩を寄せ、震えるレムの手を両手で包み込むようにして握る。
温かい。
触れ合う肌から伝わってくる血の通った温もりが、レムの心に小さな明かりを灯す。
誰かが隣に居てくれるということがこんなにも安心するとは思わなかった。
肩を寄せるルミネから、ベルガモットの優しく爽やかな香りが漂う。
お風呂上がりのシャンプーの匂い。
こんなありふれたものでも、ルミネが確かにこの世界に存在するという証に思えた。
抱えていた不安。
暗闇への恐怖。
そして、ルミネが隣に居てくれる安心感。
レムの中であらゆる情緒が渦巻き、ない交ぜになる。
自分でも自分の感情がわからなくなる。
何もわからないままに、今まで内に秘めていた感情が滲み出す。
ぼろぼろと涙が零れ、かすかな嗚咽が漏れる。
それでも今ここ、この世界で唯一確かなものに縋りつこうと、ルミネの温もりを求める。
ルミネはその求めに応じるかのように、レムの震える手を握り返す。
暗闇が続く間、ルミネはずっとレムに寄り添い、その手を握り続けた。
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