第6話 秘密の場所

 数週間ほど経った。


 院内の窓から外を見ると、木々はすっかり雪を被っている。

 たまには外を散歩するのも良いかと思い、レムは気まぐれでコートを着てエントランスにやってきた。


 エントランスにはいつものようにルミネがいた。

 入院着の上からコートを着て、正面玄関の戸が開く度に吹き込んでくる冷たい風に耐えている。


 それでも風や寒さなんか構うことなしに、全面ガラス張りになった窓の外を見ている。

 視線の先には丘の上に生えた木が一本あるばかりだ。


 レムはルミネに何を見ているのか聞かなかった。ルミネがレムに暗闇を嫌う理由を聞かないように。


「あ、おはよー」


 ルミネの方が先に気付いて、レムに手を振る。

 なんとなく顔を合わせるうちに、こうやって挨拶をするのもいつの間にか自然なことになっていた。


「おはよ」

「外出るの?」

「まあね。たまには外の空気も吸おうと思って。まあ庭はもう歩き飽きちゃったけど」


 ルミネはコートを着たレムと外を見比べて、ちょっとだけ思案顔になる。

 レムはその様子がおかしくて、ルミネの顔を覗き込むようにして見ていると、その表情が少しだけいたずらっぽい笑みに変わる。


「じゃあ、私と一緒に別のところ散歩しない?」


 *


「うわ、高」

「高いところ、嫌いだった?」

「そうじゃないけど」


 ルミネに手を引かれてやってきたのは何のことはない、ただの病院の屋上だった。

 大病院ともなると、屋上まで登るとけっこうな高さになる。

 手すりの隙間から下を覗くと足がすくむ。


 好き好んでやってくる者はだれもいないのか、積もった雪は踏み固められていないふかふかの新雪だ。

 レムとルミネでブーツの足首のところまで積もった雪をざくざくと踏んで、屋上の真ん中までやってきた。


「ここ、私だけの秘密の場所。誰も来ないからひとりになりたい時とっても便利なの」

「私と来ちゃったら、秘密の場所じゃなくなっちゃうじゃん」

「細かいことは気にしないの」


 ルミネはそう言うと、無邪気に「きゃーっ」と黄色い声を上げて新雪の中に飛び込む。

 いきなりの子供じみた行動に、レムは一瞬面食らった。


 ルミネは雪の中で足をばたばたさせた後、その場でぐるっと転がり「大」の字の形で仰向けになる。


「びっくりした。寒くないの」

「うん、大丈夫」


 ルミネは大きく息を吸い込んだ。胸の中で冷えた外気を味わうように溜めた後、ふぅっと大きく吐き出す。

 白くなった息は、たちまち虚空の中に吸い込まれて消える。


「こうしてるのが、好きなの」


 生命の灯に満ちた赤い瞳は、透きとおるような青い晴れ空をじっと見つめていた。

 その眼が何を見渡しているのか、レムにはまだ見えない。


「うわっ、やっぱり寒いじゃん」


 気付けばレムも、ルミネの隣に彼女と同じように寝転がっていた。

 新雪の刺すような冷たさが、コート越しでも十分伝わってくる。


 それでも柔らかな雪に身を預けて、目線を上へやる。


 雲ひとつない、晴れ渡った冬空。

 どこまでも見通せそうなほど透きとおっているのに、青色のほかには何も見えない。


 レムはこの空に果てがないことを思い、少しだけ不安を感じた。

 白い息を大きく吐き出し、視界を覆ってみる。

 だが、冷えた息はたちまち空気に吸い込まれ、元の青が視界に広がる。


 人類が無尽の蒼穹を突破して、その先の宇宙を目指したというのは今でも信じられない。

 確かなことなど何ひとつ、ないというのに。


 レムは耐えかねるように青空から目を逸らす。

 すると、途端に雪の冷たさが肌に己の存在を訴えかけてきて閉口した。


「ねえ、本当に寒くないの。風邪引いちゃうんじゃない?」

「この冷たいのがいいの」


 ルミネはレムの心配をよそに、穏やかな面持ちで仰向けになり目を瞑ってじっとしている。

 自分で飛び込んで作った新雪の窪みに抱かれているようだった。


「この冷たい雪も、青い空も……自然は私を受け入れてくれる気がするから好きなの」


 ルミネはあらゆる全てを自分の内に引き込もうとするように、両腕を広げる。


「だって、まだ自分がこの世界の一部だって感じられるから」


 ルミネの言葉に、レムははっとさせられた。


 レムから見たルミネはいつも穏やかでニコニコ笑っていた。

 その身にふりかかった理不尽な病などものともしない、超然とした雰囲気に満ちた不思議な少女だった。

 

 今までは、そう思っていた。


(それだけが、この子の本当の姿じゃないんだ)


 レムは雪の中で目を瞑るルミネの横顔を見つめた。

 自分が世界の一部であることを確かめようとするのは、いつもは孤独を感じていることの証だ。


 この世界の中心概念とも言うべき魔法に関われず、社会からつま弾きにされる切なさや侘しさ、孤独。

 ルミネはそういったものを感じ、飲み込みながら生きている。


 ルミネは苦難を苦難と思わない超然とした存在では決してない。

 自分と同じように不安や孤独を感じているのだと思うと、急にルミネが身近な存在に思えてきた。


 それと同時に、ひとつの疑問がレムの脳裏を過る。

 

 自分とルミネが一緒であるのなら、この世界の、魔法の価値とはいったいなんなのであろうか、と。


 この世界では、より魔法に熟達して成果を生み出した者が賞賛され、存在価値を認められる。

 だからこそ、レムは全てを投げうってパルスオペラに賭けてきた。


 そこまでして歌に己を賭けるのは、ある種の復讐でもあった。


 レムの母親もパルスオペラ歌手であった。だが母の歌は不幸にも一切世間には認められなかった。

 いつしかそのまま病に臥せり、亡くなった。

 

 失意の末のことだったのかは、わからない。


 だがレムの母は、病床にあっても、娘にか細い声で歌を披露し続けたのだけは確かなことだった。

 レムはそれを母の未練と無念であると解釈した。

 

 母は、決して無価値ではない。

 それを証明することが、母の技を受け継いだレムの全てになっていた。

 

 だからこそ、結果や力こそが全てのこの世界で必死にもがいて生きてきた。

 そんなレムにとって、ルミネは歯牙にもかけない無力で無価値な存在であるはずだった。

 

 だが、不思議と今はそう思えない。

 この世界の一切に見放され、それでもなお紅の瞳の中に生命の灯を煌々と宿すルミネに、存在価値がないと言いたくはなかった。

 

 むしろ、この世界の論理、そしてその枠組みの中の存在でしかない自分の歌にいかほどの価値があろうか。

 そう思えるようにさえなっている。


 最初はただの引っ掛かりに過ぎなかったルミネの存在は、レムの心の中で自覚しないままに大きくなりつつあった。

 

 いずれはパルスオペラの道へ戻ることになるだろうとは漠然と考えていた。

 具体的なビジョンが抱けないのは、1年以上という長い療養期間のせいだろうと思っていた。


 だが今はどうだ、とレムは自問する。


 見えていたものが見えなくなったのか、見えなかったものが見えてしまったのか。

 いずれにせよ、先の道行きは夜のとばりが降りたかのように真っ暗だ。


 結局この日も、ルミネは「また明日」と言ってレムと別れた。

 それでもなお「明日」を見るルミネの瞳には、何が映っているのか。


 今日もレムがそれを確かめるまでには至らなかった。

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