30
ばあさんが冷蔵庫からビールを持ってきて飲み始めた。
さっきまでの沈痛な顔ではなく、今はニヨニヨと笑っている。
そのことに心の底から安心した私は、しゃくりあげながら質問した。
「それでお婿さんにって思ったんだね? でもお父さんが会社を売ろうとしたって……」
「ああ、あれか。あれは俊介が悪いわけじゃないんだよ。でも私に内緒で事を進めようとしたことは看過できない。だから辞めるというのを受け入れたんだよ。辞めて欲しかったわけじゃない」
「どういうこと?」
「銀行に勤めている長男が自分の成績のために合併の話をもってきたんだ。そして俊介に『受けないなら新しい融資は潰す』と脅した。私はその頃体調を崩して入院していたから、立場の弱い婿をターゲットにしたんだろう。自分の息子ながら姑息な男だ」
「新しい融資?」
「いいかい、洋子。会社というものは借金も財産なんだよ。融資を受けていないのが健全というわけではないんだ。その融資を断られるということは、会社としての信用を失うということになる。それがどういう影響を受けるかは分かるね?」
「うん……信用の失墜は会社存続の危機だよね」
ばあさんは満足そうに頷いて、自分でビールを注ぎ足した。
そう言えば私がまだ中学に入る前だったろうか、ばあさんが入院したことがあったと思い出す。
「そう言えば、あの時っておばあ様は何の病気で入院してたの?」
「過労で胃をやられちまったんだよ。幸いガンは見つからなかったけれど、大きな穴が開いちゃって、本当に痛かったよ」
「過労で胃に穴が開くって、比喩なのだと思ってた」
「人間というのは弱い生き物だからね。でも強いとも言える。治るんだもの」
ばあさんがいたずらっ子のような顔をした。
ああ……ばあさん、今まで思い込みで委縮していた私を許してほしい。
「ねえ、鰤の照り焼きがもう一つあるんだけど、温めようか?」
私は何の償いにもならないような提案をした。
「バカな子だねぇ。それは明日の昼だろう? 贅沢は敵だよ」
私のセンチメンタルは鰤以下なのだと悟った。
「それよりアレ出して。アレ」
「アレ? アレ……アレ……ああ! アレ!」
「そう、アレ」
私は勢いよく立ち上がり、冷蔵庫からクリームチーズと味付け海苔を持ってきた。
「これこれ! お前も付き合いなさい」
「はい! 喜んで!」
クリームチーズを海苔巻きにして、ばあさんが私に手渡ししてくれた。
このシーンは、兄に対してはよく見ていたけれど、私に対しては初めてだ。
「美味しいね。おばあ様に作ってもらったは初めてよ」
「ああ、優紀さんには良く作っていたけれど、お前は寄り付きもしなかったからねぇ。優紀さんだけだったよ。私に遠慮なく話しかけたり、甘えてくれたのは」
そうか……ばあさんも疎外感を感じていたんだね。
「うん……怖かったっていうより、委縮してたんだと思う。今までごめんね?」
私は思い切って言ってみた。
「いや、私も悪かったんだ。ほら、私は子育てに失敗しただろ? だからお前にどう接していいのかわからなかったんだろうね。そっちに転んでも家事さえできればどこででも重宝されると思って、そこだけは叩き込んだけど、辛かったかい?」
「そうでもないよ。私は料理も掃除も嫌いじゃない、洗濯は洗濯機がやってくれるから関係ないけど、それを取り込んで畳んで、みんなに配ってっていうのは、ちょっと苦手かな……面倒だなって思う唯一の家事かも」
「そうか、それで優紀さんがよく手伝ってたんだね。お前たちの兄妹仲が良くて本当に嬉しいよ。うちの三人は仲が悪かったから」
「おばあ様も苦労の人生だねぇ……」
ぴしゃっと手の甲を叩かれた。
もちろん冗談のような叩き方だから痛くはない。
「偉そうなこと言ってるんじゃないよ。あんたも大学に行くなら勉強しないとね。春休みだからってうかうかしてると落ちてしまうよ! 浪人はさせないからね!」
「ひゃぁ~ 頑張りますぅ。ああ、そう言えば、友達と一緒に勉強したいのだけれど、うちに呼んでも良い?」
「友達? ああ、もちろんだ。友達は大切にしなさい。親兄妹っていうのはいつかは離れるものだけれど、友達というのは一生の宝だからね」
なぜ私は今まで『友達を連れて来るとばあさんに怒られる』なんて思っていたのだろう。
兄の言うとおりだった。
ばあさんは怖くもないし、それほど強くもない。
いや……今のは訂正しよう。
強くもないのかもしれないが、私よりは数万倍強い。
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