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 ばあさんと二人で過ごす日々は、思いのほか快適だった。

 私が勝手に委縮していただけで、話してみればちょっと頭が切れて行動力があるだけの、時代劇好きな至って普通のばあさんということがわかったからだろう。


「ねえ、おばあ様。今日も魚が良いの?」


「今まで優紀さんに合わせて肉が多かっただろ? 今度からは魚料理を増やしておくれよ。胃がもたれて辛いんだから。あと10年働かされるんだ。健康には注意しなくちゃ」


 どうやら10年続投は決まったらしい……良かった。


「父さんたち、今頃何を食べてるんだろうね」


「どうせジンギスカンかイクラ丼じゃないか?」


「おいしそう……」


「本当はね、管理栄養士になって、学校給食にかかわる仕事がしたかったんだよ。でも、時代が時代だったから、親の言うとおりにするしかなかった。高校を卒業して二年ほど事務員として働いて、見合いをして結婚した。すぐに子供が生まれて、毎日が忙しくて悩む暇も無かったよ」


「そうなんだ……管理栄養士かぁ。面白そうだね」


「そうだろ? でも結局は主婦をしながら夫の会社の仕事を手伝って……あの頃はまだ小さな会社だったから、上の子を姑に預けて、下の子をおぶって床磨きに行ったもんだよ」


「ああ、叔母さんと叔父さんね? おばあ様も苦労したんだねぇ」


「ははは! 苦労しかしていないくらいだね。仕事のことでは夫に、子育てのことでは姑によく怒られたもんさ」


 このばあさんを怒れる人類が存在したのか……実に興味深い。


「二番目の子が大学に行きたいと言った時、私は初めて夫と言い争った。自分が果たせなかった夢を託したかったんだろうね。何度も打たれたけど、譲らなかった。根負けした夫が、進学を許した時は、娘と抱き合って喜んだもんさ」


「叔父さんはもう大学生だったんだ」


「上と二番目は年子だからね。あの人は女が大学に行く必要は無いという人だったから……二番目が進学したら、三番目も行きたがるのは当たり前だろ? お姉ちゃんが4年生になった時、お前の母さんが入学した。この時もケンカになったけど、頑張って勝ち取った」


「すごいね、おばあ様」


「あの子が入学して半年したころかねぇ、あの人が出先で倒れたって連絡があって……そのままぽっくり逝っちまった。一番上は就職したばかりだし、下の二人は学生だろ? まだ幼い子じゃなかっただけマシだったけれど、私が会社を切り盛りするしかなかったんだ。その時に中心になって助けてくれたのが柏原だよ。取引先ともめた時なんか矢面に立ってくれて……本当に助けてくれた。私たちは戦友みたいなもんだ」


 仏の柏原と呼ばれるあの温和なおっさんが?

 人に歴史ありとはよく言ったものだ。


「なんとか頑張っていたんだけれど、息子から『継ぐ気は無い。掃除会社なんてやってられるか!』って言われてねぇ……それでお前は大きくなったし、学校にも行けたんだって言っても聞く耳も持ってない感じだった。銀行員がどれだけ偉いのかは知らないけれど、一人で大きくなったような顔してさぁ。お父さんと私が死に物狂いで守ってきた会社をバカにしてさぁ……悲しかったよ」


「そりゃ悲しいよね」


 ばあさんが遠い目をして壁に視線を投げている。

 私はそれ以上かける言葉を持たなかった。


「もう縁切りだって、こっちも意地になっちゃった。もう娘のどちらかに婿をって思ってたら、今度は二番目のが駆け落ちさ。大学のサークルっていうのかね、そこで知り合った男とすぐに結婚したいって言いだして……まだ学生だろ? しかももうすぐ卒業なんだから、社会人になってからゆっくり考えなさいって、相手の親と一緒に説得したんだよ。でもダメだった。二人で逃げ出して……やっぱり女に学問は毒だって言ったあの人の方が正しかったのかって思うと空しくてね」


 私はばあさんの背中を擦った。

 それしか方法を持たない私は、本当に苦労知らずの未熟者だ。


「だからあの子は卒業してないんだよ。もう情けなくてねぇ、何のために苦労してきたのだろうって考えたら悲しくてねぇ。でも入学したばかりの恵子がいただろ? あの子はこの家から通っていたから、安心もしていたし。そもそも上の二人と比べると大人しい子だったし。この子に婿を取って継がせようって思ってた矢先に……」


 ばあさんの顔が歪んだ。


「私が気付いた時にはもう18週に入っていて、堕ろすなら早くしないと母体が危険になる時期に入ってしまうだろ? でもあの子は嫌だって……病院で暴れてねぇ。もう大変だった。相手の男は誰だって問い詰めても言いやしないし、堕ろすのは嫌だの一点張りだし」


「その子がお兄ちゃん?」


「そうだよ。優紀さんだ。宥めすかしている間に22週を超えてしまって、もう産むしかない時期に入ってしまった。覚悟を決めるしかないだろ? 大学を辞めさせてその男と結婚させようとしたんだけれど、今度は恵子が気鬱を病んでしまってね」


「お兄ちゃんのお父さんは分かってるの?」


「分かってる。連絡も寄こさないし見舞いにも来ないから、こっちから行ってやったんだよ。そしたら言いがかりだなんて抜かしやがって、親も一緒になってさあ。仕舞いにはこれ以上騒ぐなら警察を呼ぶぞなんて言われちゃったよ。でもね、ちょっとだけ溜飲が下がることもあったんだ」


「なになに?」


「私は運転ができないし、乗り込んでいくのに女一人じゃいけないっていうんで、事務員が一人付いて行ってくれたんだよ。口を出さずにずっと後ろに控えていたんだけれど、いきなり立ち上がって相手の男をぶん殴った」


「すごっ!」


「それがお前の父さんだよ」


 なぜだろう……ものすごい泣けてきた。

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