28

 兄は希望通り北大に進学することが決まり、学舎に近い場所にある学生用アパートに入ることになった。

 そこは1階が食堂になっていて、入居者のほとんどは北大生なのだそうだ。

 食の確保ができれば妹としては安心できる。

 まるで姉になったような気分だ。


 入学式には両親が揃って出席することになった。

 そしてあの日以来、父さんはとても頑張って母さんに話しかけている。


「今更感が半端ない……」


 今日も頑張っている父を見ながら言った私の言葉に、兄は何度も頷いた。


「まあ、同じ家に暮らして、同じ職場で同じような仕事をしてるんだ。話題が無くて当たり前だよ」


「そりゃそうだね。今日の出来事さえ、喋る前に共有されてるもんね……」


 私たちはそっと溜息を吐いた。

 ふと兄が真剣な顔をする。


「あと1年だ。ここからが勝負だぞ」


「うん、頑張るよ」


「それともうひとつ。来週一週間は洋子とおばあ様の二人だけだ。しかもお前は春休みだ」


 一瞬だが、気が遠くなるような感覚に襲われた。


「……」


「おばあ様は、お前が思っているほど怖くもないし、強くもない。いいチャンスだと思って話しをしてみろ」

 

 ソウデスネ ガンバリマス


「それと、これはお前にやる。付箋が張ってあるところは重点的にやっておけ。絶対に損はしないから、逃げずにやり遂げろ」


 それは兄が使い込んだ参考書の山だった。

 一冊手に取ってみると、ページが黒ずんでいるところがある。

 きっと何度も何度も繰り返し開いたページなのだろう。

 

「お宝だ……完璧な地図をゲットしたトレジャーハンターになった気分だ!」


「ははは! 落とし穴も書いてあるから、しっかり頭に入れろ。ガンバレよ、洋子」


「うん、ありがとう。お兄ちゃんも頑張ってね」


「俺は楽しみしかないからな。心残りがあるとすると、お前の麦茶が飲めないことくらいだ」


「安っ!」


 家族揃ってとる最後の夕食は、兄のリクエストですき焼きだった。

 柏原さんが空港まで送ってくれることになったようで、私とばあさんに手を振った兄は、颯爽と会社のロゴが入ったワンボックスに乗り込んだ。


「行ってきます!」


 みるみる遠ざかる車をばあさんと二人で見送るのは、なんだか妙な気分だった。


「洋子、昼は素麵がいい」


「はい。12時からでいい?」


 頷いたばあさんが事務所に入っていく。

 ばあさんはあと10年を受け入れたのだろうか。

 父さんは出て行くのだろうか。

 最近の雰囲気から考えると、父さんが出て行くなら母さんもついて行きそうな感じだが。

 兄が家を出てまだ10分というところだろうか……すでに恋しい。


「洋子が作る麵つゆは少し甘いね」


「そう? 習った通りにしてるんだけど」


「私が恵子に教えたのはもっとシャキっとしてる。これはお前の父さん好みの味だよ」


「へぇ……」


「いつからこの味になっていたんだろうね……気付かなかったよ」


 兄の助言で、私はばあさんに敬語を使うのをやめてみたのだが、ばあさんは何の問題もなく受け入れている。


「母さんもいろいろ気を遣ってたんだろうね」


 ばあさんがフンッと鼻を鳴らした。


「不器用な子だよ。俊介も恵子も」


 ばあさんの口から父の名前を聞くのは久しぶりだった。

 いつも『婿さん』か『部長』だったもんね。

 私に言わせれば、ばあさんも十分に不器用だ。

 絶対言わないけど。

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