20

 結局翌日も葛城は登校してこなかった。

 虫歯とはいえ、歯まで折れたんだから、そう簡単には腫れは引かないだろう。

 いつもより真剣に授業を聞く私は、葛城への意味不明な使命感に燃えていた。

 家に帰り、ノートをまとめていると、洋子印の段ボールが目に留まる。

 その上には丸められたポスターが無造作に置かれていた。


「これは渡すべきなんだろうか……」


 今の葛城にとってこの『負の遺産』とも言うべき段ボールは不要なのではないだろうか。

 むしろ、前に進もうとしている彼女の足かせになってしまいそうな気がする。

 かちゃりと音がして兄が顔を出した。


「なあ洋子、麦茶が無くなってる」


「あっ、そうだった。すぐ作るけど、冷えるまでには時間がかかるよ。ペットボトルでも買ってこようか?」


「いや、待つよ。うちの麦茶を知っている俺の舌は、あれ以外は受け付けない」


 そうなのだ、うちの麦茶は美味しいのだ。

 大きなヤカンを火にかけて、煮出し用の麦茶パックを2個入れる。

 沸騰し香ばしい香りがしてきたら、水を張った洗い桶に浸け、糸のように細くだした流水をヤカンの肌に滴らせた。

 

「たぶん1時間位はかかるよ」


 冷蔵庫からオレンジジュースを出していた兄が、食卓に座った。


「お前って志望大学決めた?」


「まだ決めてないけど、いいなぁって思ってるところはあるんだぁ」


「どこ?」


「桜花女子大。京都にあるんだけど、近くに教会がやっている学生寮があってね、超格安で2食つくらしいの」


「うちは金がないわけじゃないから、べつにそこの寮じゃなくても良いとは思うけど、そういうところなら安心は安心だな。桜花女子大ってことは、教師希望か?」


「うん、高校の先生になりたい」


「そうか、お前は向いているかもな」


「お兄ちゃんは? やっぱりおばあちゃんの言う通りここを継ぐの?」


 兄が数秒黙った。


「俺は獣医になりたいんだ。希望は北海道大学なんだけど、寒いの嫌だから迷ってる」


 迷いポイントが実に兄らしい。


「おばあちゃん、がっかりするだろうね」


「お前が継いでくれたら良いんだけどなぁ」


「いや、それは無いでしょ」


「でも俺よりお前の方が正当性はあるんだぞ?」


「どういうこと?」


 兄が立ち上がった。


「いや、お前の方が掃除がうまいってことさ」


 自分の机の上しか掃除をしない兄に比べるなら、確かに私の方が掃除は上手いだろう。

 兄がさらっと話題を変えた。


「葛城さんだっけ? その後どうなんだ?」


「それがねぇ……」


 私は今回の事件を兄に話した。


「そりゃ酷い父親だ……あの日もそうだったけど、本当に要らない子だって思ってるのだとしたら、早く出た方がその子のためだな」


「うん、だからうちにおいでって言ったんだけど、葛城がもう少し頑張るって言うから」


「意地になってるって感じ? もしそうなら拙いけど。でもその新しい母親ってのは真っ当そうじゃん。それだけが救いだな」


「彼女の生い立ちを聞いて驚いたよ。あんな人もいるんだね」


「そりゃいろんな人がいるさ。両親揃って当たり前って思ってる奴が大半だけど、それはとても幸運な事だと知った方が良い。まあ、いずれ俺たちも大人になって親になる時も来るんだ。その時にならないとわからない事なんてたくさんあるだろうな」


 兄はもともと涙もろいところがあったが、今日はなぜかセンチメンタルだ。


「お兄ちゃん……煮詰まってる?」


「ははは! 獣医の件をどう話そうか困ってる」


「私にできることはある?」


「いや、洋子にできることは……何があっても明るく元気でいることぐらいだな」


 なんだか子供扱いされた気分だ。

 まあ子供なんだが……

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