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 エプロンの裾で涙をぬぐった静香さんが窓の外に視線を投げた。


「私はね、父親がわからないの。戸籍謄本の父親欄は空欄なんだよ。母親に聞いても教えてくれなかったから、よっぽどヤバい人なのか、政治家か芸能人だと思ってる。深雪も今までは私と同じだったの。今回籍を入れることで父親欄に名前が載ったけど。もちろんあの人は認知するって言ってくれたんだよ? でも私が断った。父親欄に名前が無くても生きていけるし、学校にも行ける。就職もできるし子供も産めるって意地を張っちゃって」


 ふと私がここにいて良いのかと思ったが、静香さんは構わずに続ける。


「母親は奔放な人でね、あまり帰ってこなかった。ひと月分の食費がテーブルに置いてあってね、私は子供なりにやりくりして暮らしてた。本当は大学にも行きたかったけれど、相談する人もお金を出してくれる人もいなかったから、高校を卒業して就職したの。生活は楽になったけれど、1人って惨めだなって思ってた」


 私はペットボトルの麦茶に手を伸ばした。


「ちゃんと恋愛もしたし、失恋もした。プロポーズしてくれた人だっていたんだよ? でも私は家族というものが信用できなかったの。だからずっと1人で生きてきた。そんなある日、私が30才になる頃だったかな。あの人と出会ったのよ。ああ、あなたと深雪の父親ね。あの頃のあの人はとても悲しい目をしていてね、なんというか絆された? そんな感じで一緒に暮らし始めたんだけど、結婚する気はなかったの」


 不倫だとわかって付き合っていたということだろうか。


「いつかはこの人も来なくなるんだろうって考えたら、怖くなっちゃってね。子供を産むことにした。もちろん1人で育てる気だったんだけど、なかなか難しくて、ズルズルと一緒にいた感じかな。沙也さんは信じられないかもしれないけど、あの人はとても子煩悩な人なのよ。毎日8時くらいにやってきて、泊まる日もあれば帰る日もあったから、きっと家庭がある人なんだろうなぁとは思っていたけれど、一緒になる気が無かったから特に確認はしなかった」


 葛城を見ると、ぽろぽろと涙を溢しながらも真剣に聞いている。


「子供が生まれてからは帰らなくなって、それが自然になってしまって……あなたには本当に悪い事をしたと思ってる。言い訳になるけれど、まさか子供までいるなんて思わなかったの。ちゃんとはっきりするべきだったよね。ごめんなさい」


 なんだか心がもやもやする。


「結局……臭いものには蓋をして自分の幸せだけを考えたんだと思う。物凄くずるいし、汚い行動だよね。でも深雪はお父さん子になってしまって、引き離すことができなくなって……ホントにごめん。あなたの犠牲の上に成り立っていたんだと思うと、自分がどんな酷いことをしてきたのか分かる。胸が引き裂かれそうだよ」


 それがわかってくれたなら良かったと思う。


「あの人が離婚したって口にして、初めて『ああ、やっぱり結婚してたんだ』って思ったくらい鈍感だった。それからはあれよあれよという間に籍が入って、引っ越しして。あなたのことは聞いていたのだけれど、あの人ったら『あの子は大丈夫だから』なんて言うものだから、納得してるんだと思った……ううん、違うわね。納得してるんだと思い込もうとしたのね。汚いよね。大人ってずるいよね」


 静香さんの目に大粒の涙が浮かぶ。


「ねえ、沙也さん。もし私たちの存在が嫌なら言って? すぐにでも姿を消すから。私はあなたが……あなたの事だけが……心配です。児童相談所に訴えるなら、私も行って証言するよ。もしここを出たいなら、あなたの生活は全て私が面倒見るよ。沙也さん……本当にごめんね……本当に……今までごめん。でも私はあなたにここにいて欲しい」


 ボロボロと泣き出した静香さんの手を取った葛城が、私の顔を見てにっこり笑った。


「こんなに私のことを考えてくれた人は、洋子ちゃん以外では初めてなんです」


 葛城……言葉が浮かばないよ。


「私は大学に行きたいです。それまではここに置いて欲しいです。それと深雪ちゃんとも仲良くなりたいです。勿論静香さんとも仲良しになりたい。お義母さんって呼びたいって思ってるんだけど……ダメかな」


「呼んで! 是非そう呼んでちょうだい」


「うん、ありがとう。すぐに遠慮のない関係にはなれないと思うけど、徐々に家族になりたいなって思っています」


 静香さんが葛城に抱きついた。

 どうやら葛城にも家族ができそうな気配なのは実に喜ばしいが……

 しかし父親はどうなのだろう。

 彼も彼なりに傷ついた過去を持つのだろうが、それを娘に擦るのは絶対に違うと思う。


「今日帰ってきたら、あの人とじっくり話をするわ。もしそれでも謝ることを拒否するなら、一緒に家出しよう」


 満面の笑みを浮かべる葛城の腫れた頬が、かえって痛々しく見えた。


「そろそろ帰ります。葛城は無理せず腫れが引いてから登校しなよ? それまでのノートは任せて」


「ありがとう、洋子ちゃん。でも明日から行くね。お弁当よろしく」


「わかった。じゃあ明日の放課後は今日のおさらいをやろうね」


 静香さんと葛城が玄関まで見送ってくれた。

 何度も振り返りながら歩く団地の坂道には、どこからか漂ってくるカレーの匂いがした。

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