第9話 私の家、この近くなの

 どうして……どうしてこうなったのかしら……



「かがみー」


「うひゃいっ!」


 突然呼ばれて、その場で飛び上がってしまう。


「タオル置いとくから。あと服も、私のジャージでごめんだけど」


「え、ええ。ありがとう……」



 なんとかそれだけを絞り出し、改めて自分の状況を整理する。


 七海ちゃんの家におじゃまして、しかもそれだけじゃなくて、いまの私は裸で。まあ、それはシャワー浴びてるからだけど。


 さっきから、ずっとドキドキをおさえられていない。本当に、どうしてこうなったのか。


 シャワーの音にいざなわれるように、私は記憶を呼び起こした――




 今日の放課後。私は教室でクラス委員長の仕事をしていた。そこへ、


「かがみ、まだ残ってたんだ?」


 一度は教室を出たはずの七海ちゃんがやってきた。



「どうしたの? 用もないのに学校に残ったらダメよ」


「分かってるって。ちょっと忘れ物しちゃってさ~」


 苦笑しつつ自分の席に行く七海ちゃん。そのあとで、視線が私に向いた。


「かがみはなにしてんの?」


 私が答えると、ふ~んと頷いた七海ちゃんは、いいことを思いついた、というような顔つきになった。それから、


「そうだ! 私が仕事手伝ってあげるよ!」


 と言った……



 七海ちゃんのおかげで仕事は早く終わらせることができた。


 それはすごく助かったんだけど、問題はその後に起きた。


 私たちが帰っている途中、いきなり雨が降り始めたのだ。


 ビックリしていた私は、



「かがみ、こっち! 私の家、この近くなの! 雨宿りしていきなよっ!」


 さらにビックリすることになった――




 流れで七海ちゃんのお宅にお邪魔することになった私は、濡れてしまった体を温めるためにシャワーを使わせてもらっている。


 脱衣所から七海ちゃんが出て行く気配を感じ、ふぅとため息をつく。


 び、ビックリした。いっしょに入ろうとか言われたら、どうしようと思ったわ。でも……



 お友達なら、それも普通なのかしら?


 いっしょにシャワーを浴びて、体を洗い合って……


 さすがに照れるわ。キスしたことはあったけれど、お互い裸だなんて。


 ああ、なんか体が熱くなってきたかも。


 私は浮かんだ光景を振り払うように頭を振って、シャワーの勢いを強くした。




「ほい、紅茶。インスタントで悪いけど」


「ありがとう七海ちゃん」


 お風呂から出た私は部屋に通された。


 七海ちゃんのお部屋は、キチンと片付いてはいるけれど結構物が多い。お洋服とか。


 女の子って感じの部屋だ。



「じゃあ、私もシャワー浴びてくるから、ごゆっくりどーぞ」


 着替えを両手で抱えた七海ちゃんは、それから本棚のほうを見て、


「雑誌とかマンガとか、読んでていいから。マンガはほとんど電子書籍で買ってるから、紙のはあんまないんだけど」


「え、ええ。分かったわ」


 七海ちゃんを見送った私は、またため息をつく。



 は、図らずも、七海ちゃんのお部屋にお邪魔してしまったわ……!


 一度は収まった胸の高鳴りが、蘇ってくる。ど、どうしよう。ごゆっくりって言われたけど、なんだか落ち着かないわ。


 私、いま好きな人の部屋にいるのね……



 ガチャ



 最初、その音の正体がなにか分からなかった。


 ビックリした。ちょっと後ろめたい気持ちになった。なにもしていないのに。


 音のした方を見ると、ドアがちょっと開いていた。隙間から誰かが覗いているのが分かる。



「七海ちゃん?」


 もう戻ってきたの? ずいぶん早い。と思っていると、ドアが開いていく。そこにいたのは……



「おねーちゃん、だぁれ?」


 ちっちゃい七海ちゃん! ちっちゃい七海ちゃんだ!


 七海ちゃんによく似た、五歳くらいの女の子がくりくりした大きな瞳で、不思議そうに私を見ていた。



 ど、どうしよう。七海ちゃんが……七海ちゃんがちっちゃくなっちゃったわ!


 しかも私が分からないなんて、記憶まで失ってしまったの!? どうしてそんなことに……



「大丈夫? なにがあったの? こんなにかわいくなっちゃって……」


 話しかけても、七海ちゃん(小)は相変わらず不思議そうな顔で私を見つめている。


 純真無垢な瞳で見つめられて、私は胸の奥が熱くなっていくのを感じた。



 こうなったら私が……私が七海(小)ちゃんを育てるしかないわっ!


「安心してね、七海ちゃん。私がついてるから」


 目線を合わせて、私は決意を新たに言う。すると彼女は、急に反対側に走り出し、


「おねーちゃーんっ! なんかへんな人がいるーーっ!」


 と無邪気な声で言ったのだった。




「もう、何事かと思ったよ」


 お風呂から上がった七海ちゃんは、ため息交じりに言った。


 その姿は、さっきまでのちいさな姿じゃない。いつもとおなじ姿だ。ていうか、さっきのは七海ちゃんじゃなかった。



「妹さんだったのね」


「うん。私、十個下の妹がいるんだ。言ってなかったっけ?」


 初耳だ。でも、ちょっと納得したかも。


 七海ちゃんて、面倒見がいい一面もあるのよね。それって、年の離れた妹ちゃんがいるからだったのかしら。というか……


 七海ちゃんの格好、いやらしすぎないっ!? 露出の多い格好で、目のやり場に困っちゃう!



「かがみ? どうしたの?」


 無意識のうちに挙動不審になっていたのかもしれない。七海ちゃんは不思議そうに訊いてくる。


「いえ、その恰好は……」


「恰好? あ、制服はもうちょい待って。いま乾燥機にかけてるから」


「そ、そう。分かったわ」


 誤魔化せた? かしら。



 安心しかけた私は、なにか違和感を、というか視線を感じる。


 七海ちゃんは、ジッと私を見つめていた。


 ど、どうしたのかしら? やっぱり誤魔化せてなかった? 私の視線に気づいた!?



「かがみ」


「な、なに?」


 身構える私。気持ち悪いとか思われたかしら? もしそんなこと言われたら、私……


「やっぱ、髪キレイだね」


「……えっ?」



 予想外過ぎる言葉に、思わず間の抜けた声が出てしまった。


 呆ける私をよそに、七海ちゃんは続ける。



「いいなー、黒髪ロング。つやつやだし、マジでキレイだよね」


「そ、そうかしら……?」


 急にそんなことを言われると照れてしまう。


 でも、他意はないみたい。たぶん、本当にそう思ってくれているんだろう。



「ね、ちょっと触らせてもらってもいい?」


「ど、どうぞ……んっ」


 七海ちゃんの手が伸びてきて、私の髪に触れる。


 最初はおずおずと、やがて手櫛をするように動かす。なんだか恥ずかしい。



「おお、スゲー……サラサラする」


 七海ちゃん、なんだか目がキラキラしているわ。


「なんか特別なことしてるの?」


「いいえ。たまにお手入れするくらいよ」


「えぇー。いいなぁ」


 髪を触り続ける七海ちゃん。ちょっとくすぐったい。


 満足してるならいいんだけど……



「なんかいい匂いもする」


「っ、はい、もうおしまいっ」


 匂いとか言われると、さすがに恥ずかしすぎる。私は身をよじって七海ちゃんの手から逃れた。


「あぅ、残念」


 とくにしつこくしたりせずに、七海ちゃんは触るのを止めてくれた。


 彼女のこういうところも好き。



「キレイって言うなら七海ちゃんだって……」


 言いかけた言葉を、私は途中で飲み込んだ。彼女の格好が、また目に入ったから。


 好きな人の隙だらけな格好って、本当に目のやり場に困るわね。


「? 私がなに?」


 不思議そうに、小首を傾げている七海ちゃんに、私は……



「な、七海ちゃんだってきれいだと思うわっ!」


「えぇっ!?」


 目を逸らし、勢いに任せて言った。


 驚いた声の七海ちゃん。ちらっと見ると、顔が赤く染まっているように見えた。



「や、やぁー、そうかな? 私は別にキレイじゃないと思うけど……」


「そんなことないわっ!」


 私は思わずまえのめりになって、七海ちゃんの手を掴んで言った。


「七海ちゃんはキレイだしかわいいわ! もっと自信もって!」


「そ、そっスか……」


 好きな人が自分に自信がないなんて、やっぱり悲しいし。



「でも、やっぱかがみのほうがキレイだって! 私とは全然違うし!」


「いいえ、七海ちゃんはキレイでかわいいわ!」


「いやいや、かがみが!」


 謎の言い合いをしながら手を引っ張り合う私たち。


 そのうち、勢い余った私たちは……



「きゃっ!?」



 その場に倒れこんでしまった。



「いたたた。ごめんなさい、大丈夫? 七海ちゃ、ん……」


 違和感があった。


 なんか、やわらかくて……?



 七海ちゃんは、私の下にいた。


 なぜか体が強張っているみたい。それに、顔も真っ赤に染まってる? どうして……


 考えて、すぐに気づく。このやわらかい感触。


 視線を下げていくと、自分の手が目に入った。七海ちゃんの胸についている、私の手が。



 モミモミ。モミモミ……


 考えるよりもさきに、手が勝手に動く。それに反応するように、七海ちゃんの体がビクンと震えた。


「ぁ、あ、あ、あぅ…………」


 かすれた、吐息みたいな、声にならない声。


 それが爆発しそうになった、その直前、



「おねーちゃん。おかーさんがね、せーふくかわかし終わったから取りにきなさいって……」


 ドアが開いて、七海ちゃん(小)……もとい、妹ちゃんが現れた。


 固まる私たち。と、妹ちゃん。お互い、そのまま見つめ合っていたけれど……



「おかーさーん! おねーちゃんたちがプロレスごっこしてるー!」


「昭和かっ!」


 いや七海ちゃん。ツッコむところそこなの? ちょっとズレた姉妹だなー。




 ……まだドキドキしてる。


 雨は止んだけど、すっかり暗くなった帰り道。乾かしてもらった制服の上から胸を触ると、ドキドキと大きな音が聞こえた。


 揉んでしまった。七海ちゃんの胸を。


 自分の胸を揉んでみて……首をかしげる。やっぱり、自分のを触るのとは、全然違う。


 いやいや、なにしてるの私。変なことしてないで、はやく帰らなくちゃ。



「ただいま」


 なんて、どうせ誰もいないだろうけれど。


 そう思いながらローファーを脱ぐと、リビングから光が漏れているの気づいた。


 珍しい。お父さんたち、もう帰ってきているのかしら。



「遅かったわね」


 リビングに入ると、お母さんがソファーに腰かけていた。


 私に視線もくれずに、訊くでもなく訊いてくる。



「ええ。お友達の家で雨宿りしていたから」


「そう……」


 相変わらず私と目を合わせることなく、お母さんはポツリと言った。



「怜那。あなた、最近たるんでるんじゃない?」


 ビクッと体が震えた。頭に浮かぶのは、先日学校をさぼってしまったときのこと。


 でも、それをこの人のまえで言うわけにはいかない。


「いいえ。そんなことない」



 久しぶりに話をしたと思ったらこれなんて。


 変わらないお母さんの様子に、私はそっとため息をついた。


 私たちが、最後に家族らしい会話をしたのはいつだろう。というか、家族らしい会話ってなんだろう。


 分からない、私には……



 すくなくとも、七海ちゃんの家は楽しそうだった。お母さんとも、妹ちゃんとも仲がよさそうで。


 うつむきがちになっていると、ふと視線を感じた。リビングに入って以来、お母さんの視線が初めて私を向いていた。



「ダメよ。もっと気を引き締めなさい。それがあなたのためなんだから」


 この人の目には、ちゃんと私が映っているのだろうか。


 それが昔から疑問だった。でも……



「分かってるわ。お母さん」


 いまは、そう答えるしかなかった――

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