第8話 電話の向こう

「では志望動機をお聞かせ願いますか?」

 何度も練習した質問だ。なんて事ない。

「はい。実は私が通う高校を選んだのも、御社へ就職されている先輩がいらっしゃるからなのです」

「ほう、では中学生の頃から当社の事を?」

「はい。私の祖父が御社の製品のファンでして。自然と私も御社の製品に触れる機会が多かったのです。雑誌でも好んで御社の製品を調べていました。中でも興味深かったのが、当時注目を浴び始めていた、自動運転システム用の画像認識AIの開発に挑んだ記事でした」

 俺のその答えに、三人並んだ面接官のうち、一番左の男が頭を掻いて照れくさそうに笑っていて、一番年長の真ん中の男がその様子を笑いながら見ていた。

「大変失礼ですが田所さんですか?」

 ここまでの移動中、俺は当時の記事の切り抜きを何度も読み返していた。田所というのは、その自動運転システム開発の担当者の名前だ。

「ええ。参ったな。まさか中学生の頃にあの記事読んでここを目指してくれるなんてね。ちなみにここで働いている君の先輩というのは?」

「川合雄二先輩です。技術開発部で働いていると聞いております」

 その名前に三人が、ああ、と首を振っていた。

「川合君の後輩か。それは期待できそうだ」


 高校三年の九月。俺は初めてその街に来た。就職試験を受けるためだ。

 試験の手応えは充分だった。採用予定人数十人に対して、今日試験会場に来ていたのが十五人。筆記試験も問題なくこなせたし、何より面接では強烈に印象を残せた……と思う。当然ながら面接で答えた志望動機が、俺がこの会社を目指した理由のほんの一部分だなんて言えはしなかったが。

 試験が終わった後、会社が用意してくれたビジネスホテルへと、総務課の女性が車で送ってくれた。どうやら日帰りができない遠隔地から来たのは俺だけだったようだ。

「ホテルの電話も使ってもらって良いですからね。電話代も会社から出ますから。無事に採用試験終わった事、学校とお家に電話してください。彼女にもかけて良いですよ、内緒にしとくから」

 そう言って笑っている女性は、スーツ姿で大人っぽく見えたが、実際はそんなに歳も離れていないのかもしれない。ただ、働いて、車を運転して、という姿だけでも、俺にとっては凄く大人に見えた。

「えっと……先輩は何年働いてらっしゃるんですか?」

 まだ就職も決まっていない彼女の事を「先輩」と呼ぶのはおかしな気もしたが、それ以外に呼び方が見つからず、俺は信号待ちで停車したタイミングで彼女に話しかけた。

「高校卒業して三年目。私ずっとここが地元で実家暮らしだから、遠くからひとりで飛行機に乗って来たっていうの、尊敬するし憧れるなあ。寮とは言っても、うちの寮はマンションの借り上げでしょ? って、まだその辺の話は聞いてないか。食事はね、まあ夕食も社員食堂で食べられるから良いとしても、一人暮らしになるんだもの。洗濯とか私には無理。できそうもないわ。……あ、私森川っていうの、よろしくね」

「えっ?」

「ん、どうかした?」

「あの、変な事聞きますけど、森川夕夏さんって知ってます?」

 聞いてしまった後、本当に変な事を聞いてしまったと後悔した。

「いいえ、知らないわね。お知り合い?」

「ええ、まあ」

「この辺り多いのよね、森川って苗字」

 信号が変わり、また車は走りだした。途中で「可児市」という看板が目に入る。会社から車で五分ほどしか走っていないが、ホテルは森川さんが住むこの街にあるようだ。間もなく車が八階建てのビジネスホテルの駐車場へと入っていった。

「さ、着いたわよ。じゃあ明日はちょっと早いけど、七時半に迎えに来るから寝坊しないようにね」

「はい、ありがとうございました」

 ホテルに入り、会社から貰った封筒をそのままカウンターにいた男性に手渡すと、古めかしい大きな茶色いプラスチック製のキーホルダーが付いた鍵を渡された。キーホルダーには部屋番号が掘られてあって、八〇三号室とあった。エレベーターで八階に上がり、ドアに書かれた部屋番号を見ながら廊下を進む。目当ての部屋のドアノブに鍵を差し込み、ドアを開けて中に滑り込んですぐに受話器を上げた。

 ポケットからメモを取り出しボタンを押す。市外局番を押し終えた所で急に心臓が高鳴り一旦受話器を置いた。

「市外局番、要らないんだよな……」


 採用試験が九月十八日にある事を手紙で告げると、その返事に電話番号が書いてあり、「是非会って話がしたい」と書いてあったのを見た時は、嬉しさで一杯だった。そして今彼女の住む街に俺はいる。

「彼女にかけても良いですよ」

 不意に彼女なんていない俺が車の中では聞き流したあの言葉が、頭の中に響いた。

「彼女ってわけじゃ……ないんだよな」

 好きなのかどうなのか。そんな事さえ未だに分からない。ただ、他の人と付き合いたいとも思えなかったのは事実だ。

「時間がもったいないな」

 時計は五時を指している。まだ帰っていないかもしれない。留守番電話だったらどうしようか。留守番電話にメッセージを残すっていうのは、何回やっても苦手だった。しかし考えてばかりいてもしょうがない。覚悟を決めて、再度受話器を上げた。メモに書かれた番号を、ひとつひとつしっかりと間違えないように押した。呼出音が鳴る。三回コールしてつながった。

「もしもし、森川さんのお宅でしょうか?」

「あ……、はい、そうです」

 女性の声だった。

「あの、カケルですけど、……夕夏さん?」

「ああ……。あの……夕夏の母です」

 本人ではなかった。しかし何と言うか、夕夏さんの母親は俺以上に緊張しているようだった。

「あ、どうも初めまして。あの、俺……いや、私は夕夏さんとお手紙を……」

「はい、知っています。カケルさんですよね。分かります。その……ミカンとか、いつもありがとうございます」

「いいえ、こちらこそ沢山本を頂いてしまって。あの、夕夏さんは……」

 そう尋ねたが、しばらく間があった。

「ごめんなさい。夕夏は……、夕夏はなんだか学校の行事で遅くなるって電話があって。凄く楽しみにしてたんですけど。……本当にごめんなさいね」

 あまりに恐縮した様子で、少し早口にそう話す彼女に、なんだか逆に申し訳なかった。

「そんな。大丈夫ですよ。学校じゃ仕方ないです。よろしくお伝え願いますか」

「本当にごめんなさい。本当に……」

 気のせいだろうか。なんだか電話の向こうにいる森川さんのお母さんを、凄く困らせているような気がした。

「あの、本当に大丈夫ですから。今日の採用試験、上手くいったんです。きっと春にはこちらに住む事になると思いますから。だから……本当に大丈夫なんで」

 聞こえたわけではない。だけど今彼女は溜息を吐いている。そんな気がした。そして、それがなんだか恥ずかしかった。俺が森川さんに会うのをどれだけ心待ちにしていたか。それを見透かされていたかのようで。

「夕夏、今日帰ったらすぐに手紙書くって言ってましたから。だから……」

「分かりました。では手紙待ってますと伝えておいてください。それじゃあ、すみません。失礼します」

 言えなかった。また電話しますとは言えなかった。何時に帰るのか、しつこく聞いてはいけない雰囲気がどこかあった。

 もしかしたら親からはあまりよく思われていないのだろうか。そんな考えに頭を支配された俺は、長すぎる一人の夜、何をするでもなく呆然と過ごした。


 翌朝は六時に目が覚めた。目覚ましは六時半に設定している。頭の中で色々な思いが廻ったままで、眠りが浅かったのだろう。そのまま目覚ましを解除し、着替えて寝癖が付いている所だけ水をかけてからロビーに降りた。

 ロビー横の喫茶店のカウンターに、部屋番号が書かれた朝食のチケットを差し出す。しばらくして、厚めのトーストとスクランブルエッグ。それに、ソーセージとベーコンにサラダといった、俺にしては豪華な朝食が出て来た。しかし、その食事が日常とは違うのだという事を俺に突き付け、昨日の電話の事を思い出させた。

 朝食を食べ終えたのが六時半。一時間後には迎えが来る。その車に乗れば空港まで一直線だ。岐阜に来たという実感さえない。せっかくなので散歩でもしようと思い立った。

 ホテルの近くには川が流れ、河川敷が公園になっている所があった。その公園まで歩き、ベンチに腰掛け、途中のコンビニで買った甘めのカフェオレを口に含む。背後には見慣れない色の私鉄が走り、車両の中は、やはり見慣れない制服を着た高校生たちで一杯だった。春からはここが地元になるのだろうか。踏み出そうとしている一歩があまりにも大きくて、その実感は全くなかった。

 七時。まだ太陽も低いというのに、既に蒸し暑さを感じ始めていた。長崎のカラッとした暑さとは違って、息苦しい。ホテルへ戻ろうと腰を上げる。シャツの胸の部分をつまんでパタパタと空気を送りながら来た道を帰っていると、犬の散歩をしている老人とすれ違った。

「おはよう」

「おはようございます」

「七時過ぎたらもう暑いやら。犬もハアハア言うとるで」

「え、ええ……」

 ふとした言葉に、違う土地に居るのだと思い知らされる。昨夜ホテルの部屋で見た天気予報もそうだ。見慣れない地図に居心地が悪かった。森川さんは同じ地図も見ても、いまの老人の言葉を聞いても、当たり前の日常なのだろう。そう思うと、二人がつながっているのがとても不思議な気がした。

 ホテルに戻り、荷物を持ってロビーのソファーでくつろいでいると、間もなく昨日と同じ女性が迎えに来た。

「おはよう。ゆっくり眠れた?」

「はい、エアコンも効いていたので」

「それは良かった。じゃあ、忘れ物ない?」

 忘れ物はないが、やり残した事はある……なんて事を言うわけにもいかない。

「はい、大丈夫です」

 採用試験という本来の目的は無事に終えられた。だが、俺の中で一番の目的だった森川さんと会うという目的は果たせず、ましてや電話で声を聴く事も叶わず、人生初の短いひとり旅は幕を下ろした。


 一週間後、職員室に呼ばれ内定を告げられた。


 森川さんへ手紙で内定を伝えると、十日後に返事が来た。ネクタイのプレゼントと共に。

 どうやらネクタイは、森川さんのお母さんからのプレゼントらしい。ネクタイの良し悪しなど分からない俺にとって、それはとてもありがたい贈り物だった。中学・高校の制服が共に詰襟で、ネクタイなんか締めた事がなかったが、届いたその日に、白のカッターシャツにその紺のネクタイを締めてみた。どうも見慣れない自分の姿に、少し照れくさかった。四月からはこのネクタイを締めて働くのだ。

 どうしようか悩んだが、その姿をお婆ちゃんにメールで送った。すると、すぐに電話があった。

「カケル、似合ってるね」

「そう?」

 おじさんと一緒に住むようになって、お婆ちゃんは少しずつ元気になってきた。おじさんの奥さんとも上手くやっているらしく、毎日楽しそうだ。

「森川さんのお母さんから貰ったんだ」

「まあ、もう岐阜のお母さんみたいなもんだね、感謝しないと」

 お母さんか……。そういう風に考えた事はなかったな。タカシのおばさんには、お母さんという存在の面影を見ることはあったが。

「そうだね。本当にありがたいよ。スーツはタカシの所のおじさんが、卒業したら買いに連れて行ってくれるって言ってた」

「え、そんな高いだろうに」

「ああ、お金は助成金があるから。結構使ってないのが余ってるって言ってたから、それで充分買えるよ」

 この辺りは半農半漁の町で、何かと近所から食料は貰ったりしていたおかげで、食費は都会の暮らしと比べたら半分もかからないらしい。俺の境遇を知っている人たちばかりだから、余計にでも親切にしてもらっていた。

「仕事もひと段落したらこっちにもおいでね」

「うん、車買ったら最初にお婆ちゃんの所に行くよ」

 おじさんの家は豊橋にある。岐阜からだと車で行けない距離でもない。

「それじゃあまたね」

「ああ、暑いから気を付けるんだよ」

 電話を切って、改めて鏡でネクタイを締めた姿を見る。写真でしか見た事がない父に、どこか似ている気がした。


 それから卒業までは、とにかく慎重に日々を過ごした。何かやらかして内定取り消しになったら、笑い話にもならない。周りのヤツもみんな同じ考えだったのだろう。学校生活は平和そのもので過ぎていった。

 この土地で暮らすのも残り一か月。中学時代の同級生たちと、別れを惜しんでよく遊んだ。そんな中でマキの噂を聞いた。

「マキは名古屋の大学に行くって言ってたかな」

 名古屋……。岐阜からは近い。この小さな町とは違い、会おうとしなければ偶然会う事もないだろうが、会おうと思えばいつでも会える距離だ。その時は「へえ」とだけ言って聞き流したが、ほんの少し、俺の心臓は何かを主張していた。

 その日帰ってから、部屋の中でマキの家に電話するか考えていると、電話の子機が鳴った。リビングにいたおばさんからの内線だ。

「カケル君、電話」

 もしかしてマキも俺が岐阜に行く事を知って電話を掛けてきたのだろうか。一瞬そういう予感がしたが、同級生には買ったばかりの携帯の番号を教えたから、そっちに掛かってくる筈だ。それに、家の電話が鳴っていた様子もなかった気がする。おばさんからどこかに掛けた電話なのだろうか。

「森川さん」

「え?」

 予想外だった。結局これまで一度だって電話で話した事はない。

「しっかり話を聞いてあげてね」

 おばさんは、いつになく真剣な声でそう言った。親機の受話器を置く音が聞こえて、外線が子機に切り替わる。

「もしもし、カケルです」

「もしもし、夕夏の母です」

 また本人じゃなくてお母さん?

 どうしてわざわざ森川さんのお母さんが……。その答えはすぐに聞かされた。

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