第9話 成長する物語

 四月一日。入社式に出席した新入社員は百二十人。俺が採用になった職種は結局、求人票に書いてあった採用予定人数通りではなく、試験を受けた十五人全員が採用されていた。その日のうちに総務の森川さんと話す機会があり、彼女が言うには、入社しても数か月で辞める人が何人か出るから、人材確保最優先で、余程の事がない限り採用しているらしい。

 部活を辞める、辞めないでひと悶着あった俺は思わず溜息を吐いたが、だからといってあの事が無駄だったとは思っていない。

 翌日からの研修を控え、この日は午前中だけの出勤だった。会社の門を出て、すぐに携帯を取り出し、電話を掛けた。

「もしもし、今終わりました。はい、じゃあ角のコンビニで。……あのネクタイ、締めてますから」

 それだけを告げて電話を切り、五分程歩いてコンビニに着いた。そこには既に電話の相手が来ていたようで、車の横に立ってこちらの方を見ている。

「森川さん、ですか?」

「ええ。カケル君ね。良かった。ネクタイよく似合ってるね」

「そうですか? ありがとうございます」

「じゃあ、行きましょうか」

 車に乗り込み、信号を四つばかり過ぎると、もう目的の場所に着いた。

「近いでしょ」

「そうですね。もしかしたら私の寮よりも近いかもしれません。方向は逆ですけど」

 車を降りながら俺はそう言った。広い駐車場に車は一台。本当にここにひとりで住んでいるのだろうかと、疑いたくなるほどに立派な家だった。

「どうぞ上がって下さい」

 門に向かってキーホルダーに付いたボタンを押すと、開錠の音がした。

「すみません、じゃあお邪魔します」

 門からエントランスにかけても綺麗に整備されていた。玄関まで緩くカーブしたレンガの道の両側に、色んな種類の花が咲いている。

 広い玄関から正面にリビングが見えた。ふかふかのスリッパを借り、部屋に入る。

 勧められたソファーに腰を下ろすと、正面に対面式のキッチンが見える。そのカウンターの上の壁に、大きく引き伸ばされた写真があった。

「あれが夕夏。最後の誕生日の写真。十二歳の時のね」

 そこに写っていたのは、家のダイニングテーブルにバースデーケーキが置かれ、その向こうに親子三人が写っている写真だった。真ん中の少女は元気そうに笑っている。

「その半年後だったの。夕夏に病気が見つかったのが」


 結局最期の時まで、彼女の病気が何だったのか分からなかったらしい。ホルモンの異常とだけしか、当時は説明されなかったという。

 ある時から彼女は、見た目も、身体の中も、信じられないスピードで老化が進んでいったそうだ。

「これ、夕夏の日記と、カケルさんに書いた最初の手紙よ。読んでもらえるかしら」

 手渡された数冊のノートと、折りたたまれた便箋。俺はまず手紙の方から目を通した。

 それは、字体こそ違ったが、最初に森川さんから……いいや、夕夏さんの名前を使ったお母さんから届いた手紙の内容そのままだった。

「その手紙はね、あの子が机の中にずっと仕舞ってあったの。きっと病気になって『大人になりたい』って気持ちが強くなったのね。もっと生きたいって」

 そう話す彼女の目には涙はなかった。もう何度となく読み返したのだろう。

「おばさんが悪いの。夕夏が死んだ後は主人とも言い争ってばかりで。すぐに別れちゃった。そして独り……。夕夏の写真と日記を見て毎日泣いてた。夕夏が読んだ本と、その感想を読んで、毎日」

 日記の方を見ると、初めて読んだ「うそつきひめと魔女」から、全ての本に関しての感想と、学校の事、初恋の事、両親の事、これまで手紙に書かれていた事が、この日記の中にもあった。

「カケルさんが書いてくれた『卒業おめでとう』のひと言が、何だか申し訳なくて……。いいえ、本当は悔しかった。どうして夕夏は死んでしまったのって。どうして卒業させてくれなかったの。どうして大人になれなかったのって。見た目だけはもうお婆ちゃんみたいになってたんですよ?」

 ひとり呟くように話す彼女に、俺は掛ける言葉ひとつ見つけられなかった。

「何やってるんだろうなって思った。夕夏はもう死んだのに、夕夏のふりして手紙書いて。カケルさんから手紙が届くたびに『夕夏、カケルさんから手紙来たよ』って写真に読んで聞かせて。バカみたいでしょ? 本当はあのまま手紙出すの終わりにしようと思ってた。でも、あの時電話でカケルさんのご家族の事を聞いて。せめて最後に本当の事を話してから終わりにしようと思ったの。本当にごめんなさい」

 家の電話で彼女と話した後におばさんから聞いた話では、おばさんが何度か森川さんの家に電話をしていたらしい。おばさんは、前から本当の事をずっと知っていたのだ。

 でも、俺はそれを隠していてくれたおばさんに感謝した。もしあの頃に本当の事を聞かされていたら、自分の気持ちを整理できなかっただろう。

 目の前で俺に向けてもう一度「ごめんなさい」と頭を下げた彼女から、とうとう涙がひとつテーブルに落ちた。

「あの、夕夏さんの学校の先生が言ったって言葉、憶えていらっしゃいますか?」

 森川さんは俺の言葉に顔を上げ、少し傾げた。

「『物語は読み終わったらそれで終わりではありません。読んだ人の心の中で、物語は成長を続けます。そして、読んだ人の成長も助けてくれます』……私にとって、夕夏さんからの手紙は、物語そのものでした。きっとお母さんにとってもそうだと思います。夕夏さんは、私の中で成長しています。そして、私の成長を助けてくれています。少なくとも今までは助けられていました。ですから、どうかご自分を責めないで下さい。お母さんが最初の手紙と、『オリオンの夏休み』を送ってくれていなかったら、今の私はいません。私は心から感謝してるんですから」

 テーブルに突っ伏して泣きだした森川さんに「大丈夫です」としか、掛ける言葉がなくなり、ただ彼女の肩に手を置くだけで精いっぱいだった。

 やがて落ち着いた森川さんが立ち上がり、本棚に置いてあった写真立てを手に取った。

「この写真、カケルさんが持っていてもらって良いかしら。あの子は嫌がるかもしれないけど」

 その写真に写っている夕夏さんは、中学の制服を嬉しそうに身体にあてがっていたが、その顔はもう母親と同じくらいの年齢に見えた。

「いいえ。受け取れません。その代り、また夕夏さんに会いたくなったらお邪魔しても良いですか?」

 なぜそんな事を言ったのか。ただ、お婆ちゃんが言っていた「岐阜のお母さん」という言葉が、胸に残っていた。母親ならば、俺が少しでも支えなくてはいけない。それが、本意はどうであれ今まで遠くから見守っていてくれた恩返しだ。そう思った。


「わざわざありがとうございました」

 寮まで車で送ってくれた森川さんに、頭を下げて車を降りた。

「本当にいつでも遊びに来てね。ご飯もご馳走してあげるから」

 車の窓を開けてそう言った彼女の笑顔を見て、本当に安心できた。

「はい。楽しみにしています。じゃあ」

 走り出した車を見送って、俺は携帯を握った。登録だけしてまだ掛けた事がない番号へ掛ける。

「もしもし、俺。分かる? そう、よく分かったな。……うん……うん、そう、岐阜だよ。でさ、今度会わないか? 話したい事が山ほどあるんだ」


 社会人になって初めての日曜日。名古屋駅で三年ぶりに再会したマキは、背中からの朝日を浴びて、あの頃と変わらず輝いていた。

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