第7話 旋回する針

 靴底を見ていた。

 ラバーが擦り切れ、緩衝材がむき出しになったランニングシューズの靴底。それを見て、潮時だと思った。

 俺は欲張りなのかもしれない。欲張りなだけに我慢を強いられる。そして、子供の頃から我慢の連続だった俺は、本音を押し殺して我慢する事に慣れ、本心を読み取られる事に恐怖心さえ抱くようになっていたのだろう。

 いつものようにタカシの家族と揃って食卓を囲んでいる時、特に気負う事なく俺はその言葉を発した。

「部活、辞めようと思うんだけど」

 おじさんと、おばさんと、タカシ。三人の手が止まって、一斉にその視線が俺の方へ向いた。おじさんは、握っていた箸を静かに揃えて箸置きに置いた。

「カケル君、なんか嫌な事でもあったのかい?」

 部活で嫌な事……。全くなかったわけではないが、それで辞めようと決心するに至ったわけじゃない。

「いや、そういうんじゃないんだけど。うちの高校って、中途半端に大会での成績良かったりするからさ。中学の時みたいに、駅伝は思い出づくりって感覚じゃないんだよね。なんか熱量の差があって、俺がいても迷惑かなって。逆に俺が辞めても、そもそもメンバーには選ばれていないし、大会に出るのも個人種目だけだから、誰にも迷惑は掛けないよ」

 この言葉を聞いてお爺ちゃんなら何と言っただろうか。おじさんやおばさんからは世話になってはいるが、そうは言っても他人だ。そう厳しい事は言わないだろう。そう思った。

「カケル君、どうしても辞めると言うなら無理に止めはしないけど、ちゃんとした理由がなきゃ駄目だ。面接の時に面接官はカケル君の資料を前に必ず質問してくる。企業にとって、新人を育てるのは、いわばギャンブルだ。新卒者がちゃんと給料分の仕事をするまで、三年はかかる。その前に会社を辞められたらギャンブルは負け。会社に損はさせない、そう思わせなきゃならない。面接官にそのリスクを感じさせない理由があるのかな?」

 陸上競技は、より速く、より遠くへを競う。その中で俺は気付いていた。速さを求める練習も、時計の針を旋回させている事に。タイムを一秒縮めるために、多くの時間を割いている。

 今まで割いた時間が、自分の将来に役立っているのか?

 その疑問が一度頭をかすめると、時計の針が進むごとに、俺の熱意とランニングシューズの靴底を無駄に奪っていった。

「ランニングシューズも寿命なんだ」

 俺が口にしたそれは理由ではなかった。最後に背中を押した事象のひとつだ。それはおじさんからも一瞬で見透かされた。

「何度も言っているけど、助成金は充分にある。助成金がなかったとしても、カケル君は今や家族だ。シューズぐらい買ってやるよ」

 面倒くさい。ほんの少しそう思った。そのおじさんの言葉に対してではない。「シューズぐらい」と言った後に見せた、「しまった」という顔だ。その表情には、これまでの俺の境遇に同情する気持ちが現れていた。おじさんだけじゃない。おばさんとタカシも、その言葉を聞いて息を呑んだのが分かった。

 感謝の気持ちの方が大きかったのは間違いない。イラつくほどの事じゃなかったかもしれない。だけど、言葉は時に自制の意識が働く前に、勝手に口から零れ落ちる。

「家族って言うんなら、俺の気持ちも汲んでよ」

 卑怯な言葉だ。それ以上俺も何も言えなくなったし、他の誰もが同じだ。「通夜みたい」ってよく例えるけど、お爺ちゃんの通夜の時の方が、この時の食卓よりも明るかった。


「もう一回考えてみた方が良いんじゃねえの?」

 部屋に戻ってしばらくしてタカシがそう言ってきた。

「いや、もう充分考えたさ。あの中で走っていても時間の無駄だよ」

「そうじゃねえよ。進学か就職かをさ。……お前、あれだろ? 部活で遅くなるくらいなら本を読みたいって思ってんだろ?」

 さすが付き合いの長い親友だ、と言っていいと思う。その通りだった。

「進学は考えてないよ」

「でも大学に行った方が……」

「俺だって自分の能力は分かってる。大学に行って、たかが四年多く勉強した所で、この頭はご立派な物にはならないよ。それに、本を書いて飯を食っていけるなんて思ってない。ただ、生きている間の目標にしたいってだけだ。たったひとりだけでも、俺の書いた物語を読んで成長してくれたら……それだけでいい」

 タカシは開いていた課題のノートをパタンと閉じて、椅子を九十度回して俺の方を向いた。

「お前凄いな。俺なんかまだ大学さえ決めきれてないのに。分かれ道を進んだ先に何があるのかしっかり見えてる。なんで親父にそれを言わなかったんだ?」

 ――他人だから。

 もちろんそんな事を言えるはずもない。だけど、俺の目はそう答えていたらしい。

「遠慮してんじゃねえよ。カケルの爺さんや婆さんにもそんなだったんだろ……。そういう所はまだまだだな。自分の事は見えているのに、他人の気持ちは見えてない。まあ、俺もそんなに偉そうな事言える身分じゃねえけど」

 タカシにそう言われて、不意にマキの事を思い出した。またちゃんと話せずに、後悔したくはない。

「そうだな。おじさんに話してくる」

「そうしてやってくれ。きっと今頃自分を責めてる。このまま放っておいたら、俺に八つ当たりしてくるからな。……ほら、行け行け。早くしないと酒が進んで面倒くさくなるぞ」

 タカシにせっつかれてリビングに降りようとしたが、ソファーに座るおじさんとおばさんの後姿を見て、声が掛けられなかった。上下に小さく揺れるおばさんの肩に置かれたおじさんの手が、左右に優しく動いていたから。

 俺が一旦部屋に引き返そうとすると、タカシが部屋から出てきた。

「やっぱり話しにくいか?」

 小声で聞いたタカシに、俺は首を横に振った。

「タイミングが良くなかったみたいだ」

 タカシはそれを聞いて、階段を少し降りてリビングを覗き見た。そして、そのまま下まで降りた。

「オヤジ、ちょっと良い? タカシが話したいって」

 振り返って俺の顔を見たタカシに、口の動きで「バカ」と言ったが、タカシは構わず俺を手招いた。仕方なく階段を降りると、すれ違いざまにタカシが囁いた。

「良いタイミングじゃん。早く二人を安心させてくれよ」

 肩をタカシに叩かれて、俺は覚悟を決めて話した。

 俺の正直な胸の内を話し終えても、やっぱりおばさんは泣いていた。でもその涙の質は、俺が階段から背中越しに目にした時とは違うものだと確信している。隣で優しく微笑むおじさんの表情が、それを物語っていた。


 俺が通っている高校には、九つの科があった。それぞれの科ごとに、ひとクラスずつ。当然クラス替えなんてものは存在しない。担任さえも、卒業まで変わる予定はないらしい。

 そんな高校生活も二年目ともなると、勉強以外の事でも担任には筒抜けだ。その担任が、ホームルームの後、俺を職員室に呼んだ。

 高校の職員室は、中学の頃と違って入りにくさはなかった。各科ごとに職員室があるこの学校では、先生たちも、少ない人数でリラックスしているような感じだった。

 この時も職員室の前に立つと、中から先生たちの笑い声が聞こえて来た。軽く二回ノックしてドアを横に滑らせる。

「失礼します」

 一度下げた頭を上げると、静電気防止の作業服を着た先生が、階段状に積み上げられた教科書の上に設置した、複数のロボットアームを動かしている。ロボットアームはバケツリレーのように、ピンポン玉を下から上へと運んでいる。

「おう、カケル。ちょっと実習室行こうか」

 アームからピンポン玉が転がり落ちるのを見て笑っていた俺の担任は、親指をクイッと動かして、職員室の隣にある実習室へ行くように指示した。

 職員室のドアを閉めて、実習室のドアに手を掛けたが、鍵が閉まっていた。一歩下がって待っていると、すぐに実習室の蛍光灯が点灯し、中から担任が解錠して、ドアを二十センチぐらい開けた。

「入ってこい」

 その担任の声の調子からして、どうやら怒られるような事じゃないとは想像できた。

「先生、なんですか? 話って」

 間に机も何も挟まず、向かい合った椅子に腰を掛けながら俺は聞いた。

「お前、部活辞めたって?」

「はい。……でも、別にトラブルがあったとかじゃないんです。もう少し、違う事に時間を使いたいと思って」

 俺の話を聞く担任は、独身で三十三歳だって言っていた気がする。違っても、その前後二歳以内だろう。どちらかと言えば、まだ若いと言えなくもないし、生徒に近い感覚を持っていて話もしやすい。だからと言って砕けすぎると怒られるのだが……。

「違う事って……女か?」

 先生は小指を立ててそう言ったが、顔は笑っていなかった。「そんな理由なら許さないぞ」と目が言っている。

「違いますよ。ちょっとした目標というか、夢があって」

 すんなり「夢」という言葉が出てきて、俺は自分で少しおかしくなった。小学生の頃の「早く大人になりたい」という願いは、恥ずかしくて誰にも言えなかったのに。

「おっと、なんだよそれ。お前に興味持たせる作戦か? 思わせぶりじゃないか」

 先生が、組んだ足の上で持っていた手帳に「夢」と書いてその周りをグルグルと円で囲った。

「先生、まさかとは思いますけど、今度合コンで今の俺のセリフ使えるな、なんて思ってないですよね?」

 生徒が授業に飽きないようにするためか、先生が授業に飽きたからなのか、この先生は合コンに行ったらどうだっただのという話を度々授業中にしていた。

「ん? そんなの思ってないさ。もう使った事あるしな。……いや、そんなんはどうでもいいんだよ。ちゃんとした理由なら、先生だって何も言わない。その夢を応援してやる。ただのぼやけた言い訳ならそうはいかんぞ。就職の時に部活を途中で辞めているというのはマイナス印象がデカいからな」

 先生が言いたい事はよく分かったし、おじさんともその事は充分話した。

「夢を今ここで話せって事ですよね?」

 俺がそう言うと、腕を組んだ先生は椅子の背もたれに体重をかけて、ゆっくり頷いた。

 一度身体の中に溜まった古い空気を全部吐き出して、潤滑油の匂いがほんの少しするその部屋の空気を吸って、柔らかい夢の形に変えて吐き出した。

「物語を書きたいんです」

 静かな間があった。隣の職員室からの笑い声が聞こえてくる。

「物語? 小説家になりたいって事か?」

 予想外の夢だった。先生の顔にはそう書いてある。

「小説家……って言われると、ちょっとピンとこないんですけど。そうなんですかね」

「そうなんですかねって、お前……。今やっている勉強と全く違う分野じゃないか」

 その自覚はもちろんあった。自分でも、俺の脳は完全な理系タイプだとも思う。

「分かってます。学校の勉強が嫌いってわけじゃないんです。実習も楽しいし。就職だって、電機メーカーしか考えてません。学校を辞めるわけじゃないですから」

 学校の勉強が嫌じゃないというのが分かって少しは安心したのか、先生の態度も柔らかくなった。

「そうか。で? 物語って、どんな物語だ?」

 多分先生が聞きたいのは、具体的な内容とかジャンルの話なんだと思う。それは何となく伝わって来たけど、そこまではまだ自分自身見えていなかった。

「具体的にはまだ……。ただ、読んだ人の心の中で、その人と一緒に成長してゆくような物語が書きたいなって」

 それまで先生の目を見て話せていたが、きっとこれは先生の期待する答えじゃないだろうと、自然と俯いて、声も小さくなっていた。

「よし! 分かった! 先生も専門外だから布施先生にアドバイス貰っておく。今日も帰ってからその勉強するのか?」

 布施先生ってのは国語の先生だ。急にテンションが上がった子供みたいに表情を輝かせる先生に、正直面食らった。

「あ、いや、勉強というか、図書館で借りた本を読むくらいですけど……」

「そうか。そうか。うん、分かった。今日はもういいぞ」

 そう言って先生は立ち上がって、入り口横の蛍光灯のスイッチに手を置いたまま、俺が実習室から出て行くのを見送った。俺が実習室から出ると、電気が消え、中から施錠する音と同時に、先生の鼻歌が聴こえた。

「なんで先生が嬉しそうなんだよ……」

 良く分からなかったが、それでも悪い気はしなかった。


 ☆ ☆ ☆


 森川夕夏様

 お手紙と沢山の本、本当にありがとうございました。何よりお元気そうで安心しました。

 俺のこれまでの人生は、いつだって誰かに守られ、助けられてばかりでした。子供だから大人に守られるのは当然かもしれない。でも、森川さんは俺と同じ年ですよね。そんな森川さんにどれだけ助けられた事か。どれだけ心の中で森川さんの言葉や本たちに甘えていた事か。この一年で嫌という程思い知らされました。

 もしあの時、森川さんが風船を見つけていなかったらどうなっていたかわかりません。今も、目標も何もなく、漫然と日々を過ごしていたかもしれません。

 森川さんの手元には、俺が送ってきた手紙が沢山あると思います。俺は成長できていますか? 大人に近づいているでしょうか? 守られるばかりの子供じゃない、大切な人を守れる大人に。

 前の手紙でも少しだけ書きましたが、俺は将来、たった一冊だけでもいいから、いつまでも学校の図書室に置かれるような物語が書きたい。その物語を読んだ子供たちの心に、ほんの少しでも心に残る物語を書きたい。そう思っています。その夢を叶えるために、本当ならば大学に進んで勉強をするべきでしょうが、俺は早く自分の手で働いて自立したいのです。

 実は今日、その夢のことで担任とちょっとした話し合い……とまではいきませんが、何がしたいかを話しました。

 夢と現実の間には、まだまだ大きな壁がありますが、諦めなければいつかきっと叶うと信じています。嘘もつき続ければ真実になるように、夢だって持ち続けていれば現実になったっていいはず……ですよね。「嘘もつき続ければ――」ってあまりいい意味では使わないか。でも、俺は嫌いじゃないです。この言葉。

 だから森川さん。嘘、ついていたとしても良いですよ。嘘つきでも構いません。これまで何度となく森川さんの言葉と本たちに助けられてきたのは事実ですから。

 俺は、森川さんから受けたその恩を、未来の子供たちに返していきたいと思っています。言葉から貰った恩を言葉で返したい。物語に助けられた恩を物語で返したい。そんな自分勝手な方法だけど、いつか必ず叶えたいです。

「うそつきひめと魔女」森川さんが初めて子供の頃読んだときはどういう感想をもったのでしょうか。今の俺が読んだ感想とはまた違うのでしょうね。

 俺は姫に成り代わった後の、魔女の働きに感心しました。大人の魔女が子供の姫に成り代わったのですから、元の姫よりしっかりしていて当然なのですけれどね。姫として生きてゆくうちに、色々な人と出会い、優しさに触れ、厳しさを知り、思いやりを大切に考え始める。そんな変化もじわっと胸にしみました。最後に姫を殺してしまうのはショッキングでしたが、過去との完全な決別のためには必要な事だったのかもしれません。魔女を許してしまう俺も、少し残酷ですかね……。

 確かに俺が作者だったなら、屋敷で既に亡くなっていた姫を、魔女として墓に埋葬する程度にするかもしれませんけど、物語としてはそれでは弱い気もします。難しいですね、物語を生み出すというのは。

 森川さんは何かありますか? 夢。

 良かったら今度聞かせてください。勝手な事を言うと、俺的には、森川さんには学校の先生になってもらいたいな、と思っています。きっといい先生になるんじゃないかな。いいや、絶対そうだと思います。

 最後に、俺が読んだ本で森川さんもきっと気に入るだろうな、と思う本があったので書いておきます。

 複数の作家さんが書いた夢についての短編を纏めた本です。タイトルはそのまま「夢」。

 森川さんから最初に贈ってもらったオリ夏の作者の笹木美佳さんの作品もあります。是非読んでみて下さい。

 それではまた。

 カケルより


 * * *


 ――岐阜県可児市。

 夕刻に玄関を掃除していた女性の所に郵便局のバイクが止まり、一通の手紙を手渡した。女性は宛名を見てひとつ呟く。

「カケル君……」

 女性は門扉に箒を立て掛け、明け放していた玄関をくぐって家の中へと入っていった。

 リビングの中央に置かれた小さいテーブルの引き出しから、ハサミを取り出して手紙の封を切る。便箋を抜き出して読み進めると、自然に涙が零れていた。

「随分感想も上手になったんじゃない?」

 彼女が手紙を読み終えると封筒の中に戻し、宛名をもう一度眺める。

「ありがとう」

 無意識に彼女から出る言葉に誰も気付かない。口にした本人さえも。

 封筒を、本が一冊もない本棚に置かれた四角い缶の中に仕舞う。

 本棚の一番上には、笑顔で並ぶ家族の写真。その横にある数冊のノートのうち、一番下にあるものを彼女は手に取った。

「うそつきひめと魔女……うそつきひめと魔女。あった」

 そのノートには幼い子供の字で物語の感想が書かれていた。

「『うそつきはキライ』……か。そんな事書いてたっけ……」

 彼女は幼い感想にクスリと笑った。

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