第16話

 生徒指導室を出たタイミングで、授業の終わりを告げる鐘が鳴った。

 僕はトイレの個室に籠って時間を潰し、タイミングを測って教室に戻った。その時にはもう、先生に告げ口した女子生徒も、僕の言葉を無視した牧野梨花もいなくなっていた。

 教室に戻ってきた僕を見て、残っていた者たちは顔を引きつらせていた。それを無視して、机の横に掛けてあった鞄を取る。

 机の上に、水性のペンで「幸田宗也」と書かれていた。

 落書きを消してから学校を出た僕は、すぐに帰らず、ふらふらと町を歩いた。何も考えずに歩いているだけで、時間は飛ぶように過ぎ、気が付くと、夕方の六時だった。

 赤くなった西の空を一瞥し、踵を返す。

 公園の前を通り過ぎた時だった。

 閑散とした公園。今に切れそうな街灯の光に照らされて、誰かがブランコにベルトのようなものを巻いて、首を吊っているのが見えた。

 目を凝らすと、見覚えのある高校のブレザー。見覚えのある黒髪、見覚えのある華奢な身体。

憎き、牧野梨花だと気づくのに時間はかからなかった。

「ああ…、なるほど」

 あいつ、入水自殺に失敗したから、今度は首吊りに挑戦したのか。

 みるみる彼女の首が締まり、「かふっ!」と、息が詰まるような声が道路まで聞こえた。

 僕のことを「殺人鬼」呼ばわりする女だ。助けたって気分が悪いだけだ。

 そう思い、一瞬は、見て見ぬふりをして通り過ぎようと考えたのだが。三歩進まないうちに、僕の身体が硬直した。

 三秒の沈黙。

 次の瞬間、僕は持っていた鞄を下ろすと、開けてペンケースを取り出した。その中に入っていた鋏を掴むと、踵を返して公園に飛び込む。首を吊っている牧野梨花に駆け寄ると、勢いそのまま跳んで、ブランコの鉄柱を掴んでぶら下がった。

「よいしょ」

 なんて言って、張り詰めるベルトに鋏の刃を押し当てる。

 牧野梨花の充血した目が僕を見たような気がした。

「あ…」

 まるで、「やめろ」とでも言うような呻き声。構わず手に力を込めて、ベルトを切断した。

 解き放たれた彼女の身体は、重力に引っ張られて地面に落ちた。鈍い音が薄暗闇に響く。

 青白い顔をした牧野は、すぐに上品さの欠片も無い咳をし、遅れて、土の上に胃酸と弁当が混ざったものを吐きだした。

 涙と吐しゃ物でぐちゃぐちゃになった顔が僕を見る。糾弾するために息を吸ったが、噎せてまた吐いた。

「…な、な、なに、よ」

 苦しむ牧野梨花を前に、僕はピエロのようにおどけたステップを踏んだ。

「悪いな、放っておいても良かったんだけど、それだと、僕は自殺幇助で捕まっちゃうんだよ。そうしたら、みんな僕のことを、『やっぱり殺人鬼だった』って言うだろう? 僕は幸田宗也とは違って、善人なんだ。感謝するんだな」

「ふ、ふざけ、ないでよ」

 牧野梨花は掠れた声を絞り出した。

「もう少しで…、死ねたのに…」

「詰めが甘かったな。死ぬなら、人のいない場所にしろ。一緒に探そうか? ニュージーランドのネイピアとかいいと思うんだ。まあ、ビザ持ってないけど」

「馬鹿…、じゃない?」

「馬鹿とは心外だな。言ったろ、これは僕に宿る正義の心…」

 そう言いかけたが、急に馬鹿らしくなって口を噤んだ。

「いや、嘘だよ。単なる嫌がらせだ。悪かったな」

「でしょうね」

 牧野はため息をついた。

「あんた…、みたいな、殺人鬼に正義感があってたまるかって話。そうやって、嫌がらせをしてくれた方が、まだ、可愛げが、あるね…」

 立ち上がろうとしたが、すぐに体の力が抜け、地面に手をつく。息も絶え絶えで、しきりに肩が上下していた。

 声をかけようとした時、彼女はそのしなやかな指で地面を掻いた。拳を握ると、髪の毛を振り乱しながら、地面を殴りつける。何度も殴る、何度も、何度も、何度も殴った。

「おい、やめろよ」

 痛々しく見ていられなくなり、僕は牧野梨花の手首を掴んだ。すると、彼女は暗くなり始めた空を仰ぎ、そして、ぼろぼろ…と涙を落とした。

「うっ、うう…、ううう…、うう」

 そりゃ人間だから泣くのは当たり前だけど、何故かびっくりした。

「死にたかった…、死にたかった…、うう…、うう」

「おい、落ち着けよ」

 なんだか罪悪感を覚えて、すぐに宥めようとしたが、牧野梨花は止まらなかった。

「なんで止めたの…? なんで、死なせてくれなかったの…?」

「だから…」

「あんた、殺人鬼でしょうが…」

 その言葉に、僕は動けなくなった。

 牧野梨花の弱弱しい拳が飛んできて、胸骨を打つ。痛くないのに、痛かった。

 放心していると、彼女は涙と鼻水と吐しゃ物でぐちゃぐちゃになった顔を、僕の胸に埋めた。

「ねえ、殺して…」

 悲痛な声に乗せて放たれる懇願。

「お願い…、死にたいの…、殺して…。あんたなら、できるでしょうが…」

「だから…」

 だから、言っているだろう? 僕は幸田宗也とは違うんだ。

 「お前は殺人鬼だから、自分を殺せ」なんて言葉、侮辱以外なにものでもなかった。

 怒りが沸き上がったが、すぐに行き場を失った。普通に考えれば、目の前で泣いている自殺志願者にぶつければいい話なのだが、何故か違うと思った。

 牧野梨花の声には、本気で悲しんでいる感情が伝わってきた。

 里親の静江さんとの日々で何度も見てきた。彼女が死んで、僕も流した。

 彼女の涙は、本当に心が傷ついている者のそれだったのだ。

「お願い…、殺して…、死にたい…、死にたい」

「ああ、もう。落ち着けよ。深呼吸をして…」

 どうしたらいいのかわからなくなって、とりあえず、牧野梨花の肩に触れた。その時、彼女の身体が異常なほどに熱を持っていることに気づいた。

「お前、熱があるんじゃないか?」

 そう言って牧野梨花の顔を覗き込む。案の定、青白かった彼女の顔は、ゆでだこのように真っ赤に染まっていた。半開きになった口から舌が垂れ、浅い息を吸う様は、まるで餌をねだる犬のようだった。

 救急車を呼ぼうと、ポケットに手を入れる。だが、すぐに止めた。

 多分、牧野が望んでいない。でも、放っておけない。

「ああ、もう…、やるしかないか」

 僕は頭を掻くと、ぐったりとした牧野の腕を掴んだ。

 彼女が抵抗しないことをありがたく思いながら、背負う。

「お前が悪いんだからな。元気になって、誘拐犯とかいうなよ」

 立ち上がると、そのまま歩き出した。吹きつけた風が僕の頬を撫でる。足もとのコンクリートがやけに硬いと思った。

「…ほんと、むかつくよ」

 顔がいい。背は少し低く華奢だが、メリハリはある身体をしている。頭もいい。運動もできる。人望も、金も、何でも持っている。人生バラ色。約束された未来を持っている彼女が、どうして川に飛び込み、首を括り、自殺を図ったのか。

「死にたいのはこっちなんだよ」

 でも、この背中で、今もなお涙を流す牧野を見ると、苛立ちは針に突かれた風船のように萎んだ。僕は十七年も地獄を見てきたんだ。この涙が本物ということくらい、わかっていた。

 ほんと、むかつくよ。

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