第10話

 空腹が紛れた後は、虚しい気持ちを抱えながら皿を洗った。

 シャワーを浴びて、念入りにうがいをしたというのに、鼻の奥に、川の水の青臭さが残っている。その臭いを嗅いで思い出すのは、牧野梨花のことだった。

 あの時、川に飛び込んで、自殺まがいのことをしようとしていた、牧野梨花。

 お互いに面識があったのには訳がある。同じ歳、同じ高校に通っていることはさることながら、僕と彼女は、同じクラスだったのだ。もちろん、言葉を交わしたことは無い。だが、お互いに目立つために、自然と顔を覚えていたのだ。

 勘違いの無いように言えば、「目立つ」と言っても、僕と彼女じゃまったく印象が違う。

 かつて二十六人を殺害した殺人鬼のクローンということで悪目立ちする僕とは対照的に、彼女は、「天才」として目立っていた。

 牧野梨花は、今までに行われたほとんどのテストで高得点を叩きだしている。真偽のほどはわからないが、学年で五位以下を取ったことが無いらしい。

 「ただ勉強ができるのなら、天才ではなく、努力家じゃないのか?」と思うかもしれない。だが、彼女は運動もよくできた。体育祭の対抗リレーでアンカーを走らせれば、必ず一人を抜いて戻ってくる。グループマッチでバスケットボールをやらせれば、無理な体勢からでも必ず点を入れてくれた。そして、牧野が「天才」である確固たる証拠は、彼女の家族にあった。

父親は病院の先生。母親は県庁の職員、しかも重役。姉は某有名国立大学に通い、弟はまだ中学生だが、サッカーの方で実力を発揮し、全国大会に出場したことがある。

 話したことがない彼女のことをこんなにもよく知っているなんて、気持ち悪いだろうか? それほどに、関わりがなくとも、学校で彼女の話題は絶えなかったのだ。

 このエリート一家に生まれた牧野を見て、誰が彼女のことを「努力家」と呼ぼうか。彼女は間違いなく、「天才」だった。細胞に、栄華への道が組み込まれているのだ。

 そんな、将来を約束された女が自殺を図るなんて、にわかに信じられない話だ。そして、少し裏切られたような気分だった。

 彼女は、クラスメイトに、「すごいね」と言われても、困ったように笑って「そんなこと無いよ」と返す謙虚な一面があった。「聖女」という言葉が似合う女だった。だから、心の中でどこか、殺人鬼でクローンの僕にも、それなりに対応してくれると期待していたのだ。

 だが、結果はあの通り。

 結局、彼女は猫を被っていただけなのだ。

 まあ、人間ってそんなものか。僕のことを「殺人鬼」と呼んでくる酷い奴だって、きっと家に帰れば温かい家族が待っているし、卒業式はきっと「最高の三年間でした」なんて言って感動の涙を流すものなのだ。

 とは言え、なんだか、やるせないよな。それで世の中がまかり通っているんだから。

 そう思うと、指先に、ぴりっとした苛立ちが走る。

 濡れた皿を棚に戻そうとした時だった。

 カランッ! と、金属質の何かが落ちるような音が、玄関の扉の向こうから聞こえた。

 一瞬は聞き間違いかと思ったが、カラカラ…と、落ちたそれが転がる音。はっきりと、扉の前から聞こえる。

「……」

 嫌な予感がした僕は、唾を飲み込むと、玄関に歩み寄り、濡れた手のままドアノブを掴んだ。

 ひと思いに押して開ける。

 ゴツン…と、硬い感触が手に残り、それ以上進まなくなった。

「…あれ?」

 何となく、扉の隙間から顔を出す。

「…あ」

 扉の前では、知らない男が額を押さえて蹲っていた。小太りで、黒いジャージを身に包んでいる。その足元には、赤いスプレー缶が落ちていた。

「何してるんですか?」

 男が顔を上げた拍子に、彼の涙目と、僕の目が合った。

 男は変な声をあげると、重々しい動きで立ち上がり、アパートの階段に向かって走り出す。

「…あ、待てよ」

 僕はサンダルを履くと、転げるように外に飛び出した。

 反射で扉を閉めた時、そこに赤いスプレーで、「殺人鬼」と書かれているのがわかった。

「あ…」

 文字を見た瞬間、耳の奥で、張り詰めた弦が切れるような、プツン…という音が響く。僕の中であいつが、敵に変わった瞬間だった。

「このやろ…」

 口を一文字に結ぶと、サンダルで冷たいコンクリートを蹴り飛ばした。

 勢いそのままに目の前の手すりを飛び越える。

 後先のことは考えていなかった。

 ダンッ! と、勢いを殺しながら真下の駐車場に着地する。痺れるような痛みが全身に走ったが、怒りで忘れた。

 顔を上げると、階段を降り切った小太りの男が走ってくる。僕と目が合ったが、そう簡単には止まれない。突っ込んできた。

 痺れる右脚を軸に、上体の捻りを利用して一回転すると、強烈な回し蹴りを放った。

 サンダルを履いた踵が、男の頬を捉える…直前に止める。

 それなのに、男は「ふぎゃあ!」と猫が踏みつぶされたような声をあげると、躓き、二、三回転がった。

 男が動かなくなったのを見計らい、すかさず間を詰め、その胸倉を掴む。

 僕に睨まれた瞬間、男は悲鳴を上げた。

「た、助けて…」

「助けてじゃないだろ…、お前、何やってたんだ?」

「な、何も…」

「何もじゃないだろ、あの落書きはなんだよ」

 そう声を低くして言うと、男はバツが悪そうにそっぽを向いた。

「どうして、あんなことをした?」

「いや、だから、その…」

 酸欠を起こしたみたいに、喉の奥で言葉がつっかえる。

 男は泣きそうになりながら、絞り出した。

「お前、殺人鬼だろ?」

「違う」

 食い気味に否定する。

「僕は、殺人鬼じゃない」

 男がどうしてあんなことをしたのかは、なんとなく想像がついた。僕を殺人鬼に見立て、糾弾し、己の正義の心を満たしたかったのだ。

「もうこんなことしないでくれ」

「いや…、でも」

 この期に及んで、男は自分のしたことを正当化しようとした。

「お前の存在は…、みんなに、恐怖を与えるから…」

「僕は誰も傷つけていない」

「殺したじゃないか。二十六人も」

「殺してない…」

 むきになって首を横に振る。

「殺した!」

 男も、むきになって声を荒げた。

 本当に不思議だ。どうしてこういう人たちは、話が通じないのだろう? 理解してくれなくてもいいから、せめて、話を聞いてほしい。

「殺人鬼が生きていて良いわけないだろ! さっさと死ねよ!」

 開き直った男は、そう言った。

「そうか…」

 僕は静かに頷いた。

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