第6話

 ――無理に『おとうさん』なんて呼ばなくていいよ。でも、おじさんは凛くんともっと仲良くなりたいな。


 やだ……。


 ――どうして逃げるの?何も怖がることなんてないのに……。


 やだ、やめて。助けて、お母さん。助けて、……幸希ちゃん。


 ――おい!どこ見て歩いてんだよ、のろま!


 お前こそ、どこ見て歩いてるんだよ。


 ――さっきの威勢はどうした?楽に死ねると思うなよ、このクソガキ。


 やめろ、俺に触るな。やめろ、やめろ、やめろ……。




「――凛ちゃん」


「やめろ!!!」


 目を覚ました俺は、こちらに向かって伸びてくる手を、反射的にバシッと払い除けてしまう。

 目の前には、驚いた表情で俺の顔を覗き込んでいる幸希がいた。

「ご、ごめん……」

 幸希は申し訳なさそうに、俺が払い除けた手を引っ込めた。

「いや、俺の方こそ、悪かった……」

 俺は息を整えながら、徐々に冷静さを取り戻していく。

「大丈夫?うなされてたみたいだけど……」

「大丈夫だ。……ちょっと、嫌な夢を見ただけだ」

 俺はそう言って、幸希から目を逸らした。







 先ほどの悪夢に出てきたのは、義父と望月だ。

 

 両親が離婚し、引っ越してから間もない頃、母が「再婚したい」という男を俺に紹介した。

 再婚相手――義父に対する第一印象は、「優しそうな普通のおじさん」だ。

 義父とは、母と入籍する前から一緒に暮らしていた。

 義父は、見た目通り優しくて穏やかな人間だった。

 ――。


 母が不在のある時、俺は義父の本性を知ることとなる。

 あの時、俺は「こんなにもおぞましい人間がこの世に存在するのか」と思った。

 俺にとって義父は、この世で嫌いな男だ。


 俺は十六の時、憎き義父を殴り飛ばした。

 馬乗りになって、非力だったガキの頃の恨みを晴らすために何度も殴った。本当は殺してやりたかったが、母が警察に通報したことで、それは叶わなかった。

 それから程なくして二人は離婚し、俺と母の関係はそれがきっかけで険悪になった。


 高校を中退すると、俺は家を飛び出して、行く当てもなく放浪する生活を始めた。

 その間、食べ物を万引きしたり、置き引きで金を盗んだりして、何とか生きていた。

 

 気が付くと、俺はかつて住んでいたこの街に戻って来ていた。

 どうしてこの街に戻って来たのか、自分でも分からない。

 もしかすると、俺は戻りたかったのかもしれない。幸希と一緒にいた「泣き虫の凛ちゃん」だった頃に――。


 この街に着いてすぐ、俺は路地裏で望月とすれ違いざまに肩がぶつかった。

 望月は俺に謝るどころか、「のろま」と吐き捨てた。

 俺の中で、何かがプツンと切れる音がした。

 あの瞬間、俺の脳裏には、俺のことを嘲笑ったいじめっ子たちと、俺の尊厳を踏みにじった義父の顔がよぎった。

 

 俺は気が付くと、望月に殴り掛かっていた。

 望月がヤクザであることは、あいつの見た目からすぐに分かった。しかし、俺はそんなの気にも留めなかった。

 それに、望月のそばには舎弟が三人もいたので、俺はハナから奴に勝てるだなんて思っていない。

 

 それでも、俺はどうしても許せなかったのだ。

 望月だけじゃない。俺のことを侮辱した奴ら全員のことが許せなかった。どうしても殴り飛ばしてやりたいと思った。

 あの時、俺は死んでも構わないという覚悟で、あいつに殴り掛かったのだ。

 しかし、望月は俺のことを殺さずに、俺の覚悟を嘲笑うかのように嬲り続けた。


 ――望月、こいつはどういう了見だ?


 初めて宮永さんに会った時のことを、俺は今でも鮮明に覚えている。

 舎弟や子分をゾロゾロと連れていた宮永さんは、ボロボロになった俺を見て激怒していた。その一方で、望月はかなり動揺した様子だった。

 宮永さんが命じると、引き連れていた二人の舎弟が望月を取り押さえた。――その舎弟の片方は、市ノ瀬さんだった。

 そして、宮永さんは小刀で望月の指を切り落とした。

 室内には、望月の情けない絶叫が響き渡った。


 ――ごめんなぁ、坊主。うちのバカには、後できつく言っておくからよ。今回のところは、こいつで勘弁してくれ。


 宮永さんは不敵な笑みを浮かべながら、俺の目の前に、切り落とした望月の指を掲げた。





 


 俺が苦い思い出に浸っていると、幸希はそっと優しく俺を抱きしめた。

「何だよ、急に……」

「子供の頃、怖い夢を見た時、よくお母さんがこうやって抱きしめてくれたの。そしたら安心したから、凛ちゃんも安心するかなって……」

 俺は気恥ずかしくなって、「ガキ扱いすんじゃねぇよ」と吐き捨てた。

「でも、怖い夢って、大人になってもすごく恐ろしいでしょ?」

 幸希は子供をあやすような口調でそう言うと、俺を抱きしめながら優しく頭を撫でてくれた。

 不覚にも、俺は幸希の温もりに安心感を覚えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る