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終わった直後、背伸びをしてから寝起きの目を擦り、さっさと帰ろうと立ち上がる私を誰かが呼び止めた。高身長で黒色の濃いブランドのスーツ。上等な染め具合の代物だった。せっかく立派な衣装に身を包んでいるのに、それを汚さんとする強力なチー牛のオーラが体中から染み出していた。そうか。コイツは服だけが完璧だった。首から上を切り離してさえあれば、いや、醜く丸まっている背中も必要なかった。いや、究極的には本体がいらなかったんだな。まるでビゴーの風刺画に描かれた日本人のような、これより下が無いくらい最悪で滑稽なスーツ姿だったと思う。
「誰だお前。」
「
思い出した。明智ユウイチだった。壊滅的なまでのチー牛だった。たらこくちびるが鼻よりも突き出していて、頬は常にふくふくと膨らんでいて、常に何か液体を吐き出しそうなのをこらえている印象を受けた。ひとたび口を開けば常に醜い歯茎が垂れ下がった。額を半分くらい隠すギザギザの前髪に、黒フレームのシンプルな眼鏡をかけていた。
おまけに「ござる」口調ときたもんだ。手短な自己紹介に対して反応する暇も無く、10mくらい離れた場所から声を飛ばしてきた。
「あガンバリオン、
・・・その声は爽快に張っており、耳触りが上等だった。訓練された声だと、素人の耳にも聞き取れた。その努力を姿勢の矯正にも少しは向けるべきだ。明智の発言内容に関しては全くその通りだった。これは3年前の劇場版銀河爆走ガンバリオン公開にあわせて、映画館内の売店のみで限定販売されていた、限定ガンバリオンMk-Ⅲのキーホルダーだ。
「・・・そうだけど。」
「なんとあふむふむあちょいと失礼いたしまするぞ」
背丈が180cmを優に超えている、明智と名乗るノッポ男は、足音を一切立てず、それはそれは静かに10mくらいの間合いをあっという間に詰めてきた。
「赤いボディと、
明智の手をキーホルダーから振り落として私は距離を取った。近づいてほしくなかった。思春期を終えた
明智はそこから更に大袈裟に10mくらい私から遠ざかって、座布団なんてないリノリウムの通路に正座をした。
カッ!
明智はより鋭く扇子を床に叩きつけ、鉄筋コンクリートの校舎の天井と壁を震わせた。少し茶色がかったチー牛のオーラが妖しく揺らめいて、スーツで隠しきれないほどの明智の才能を以てして、私の目の前には荘厳な木造の舞台が現出していた。私は明智の世界から抜け出す時機を失った。息を飲んだ時には既に寄席の中に座っていたからだ。
「ぁ~、ここは、拙、者の
カッ! カッ!
ハラ、キリにめんじてぇ・・・!」
カッ!カッ!カッ! カッ!カッ!カッ!カッ!カッ!カッ!カッ!カッ!
・・・パチン!
「ぁ、どうか、お許し、いただき、とう、存じまするうぅぅ~!!!」
姿勢悪く土下座へと背中を丸めながら、明智は太い声でビリビリと歌舞いた。もし明智がスーツではなく袴だったら、ここまで滑稽ではなかったはずだ。私はいつの間にか廊下の現実に戻された。さっきまで私を包み込んでいた木の香りは消え、ただの廊下に座布団もなく正座している明智のスーツ姿が目に映った。随分とお粗末だった。明智は「すぅぅぅ・・・」と深呼吸をすると、扇子の柄を腹に刺し込んで、右から左へとゆっくり切り始めた。
「うぐぐっ!ぐぎぎぎぎぎぎ!」
「やめろくだらん。別に切腹なんて見たくない。」
「ああなんと!寛大な方にござろうか!」
「もう切腹途中だし。今更寛大もクソもないだろ。」
ぬらりと立ち上がって膝を払う明智を、私は改めてさらっと観察した。深い黒色の高級感あるスーツ上下に、新品っぽい白シャツ、
「ところでそなたのお名前は?」
「私は雷門瞬。一瞬の瞬で 《またたき》って読む。」
「よろしゅうお願いするでござるよ、雷門氏」
「・・・よろしく。」
私は明智と握手をした。不健康に背筋が曲がっていて食生活が心配になるほどに細身な癖に、腕の筋肉だけは上等にがっしりとしていた。これが工学部人の不自然な肉体か、などと考えていたことを覚えている。
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