(四)-1
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藩主に「日本外史」を講義し、夜中に帰る途次を三人がかりで襲われ、斬りつけられた。絶命したのちもそれで終わらず、首を掻かれ、雁切橋のたもとに晒された。
容堂は暴れた。
酒器を叩きつけて割り、脇息を振り回して壁を殴り、ふすまや障子を蹴り倒した。
土佐にはあだたぬ。あの凄まじく優れた男を殺したのは誰だ。
地元では土佐勤王党の仕業であると公然と囁かれているという。
それは確かに事実だろう。しかしそのような下っ端刺客は問題ではなく、命を下したのは別にいる。武市半平太。
そして、藩の参政が城を出る日時と帰路を正確につかめるのは、藩の中枢の人間しかありえない。
だが下手人は、それにとどまらない。
逼塞していた東洋を、二度も引っ張り出して藩政につかせたのはほかならぬ自分だ。それがなければあの男は今でも、田舎で私塾を営んで若者たちの教育に努め、平和に暮らしていただろう。
いや、はたしてそうであろうか。
十数年前、東洋のことを知った当時からずっとずっと心のどこかで思っていた。あれは、畳の上では死ねぬ男だと。
あまりに激しく妥協のできぬ気性、比喩ではなく本当に手を出してしまう暴力性。それらがどうしようもなく周りを傷つけ、ついには本人の命までも奪ってしまう。
そして腹立たしさの極みではあるが、因果応報の要素もないことはないのだ。
だがそのような精神論はどうでもいい。
仇を討つ。復讐を果たす。保守派を断罪することが土佐崩壊につながるのなら、せめて武市半平太はかならず血祭にあげてやる。
野中兼山やさらに東洋のものであった激烈な気性が容堂の中にも目覚めていた。自分もしょせん土佐者だ。これで土佐勤王党や保守派のそれと同じ業に陥ることになっても構わない。そう、調所笑左衛門を殺された時の島津斉興のように。
しかし、斉興と容堂とは立場が違った。斉興は島津家の嫡流であり当時は藩主でもあったため、一気に斉彬派を弾圧することも可能だった。容堂はもともとが藩内の基盤が極めて弱く、さらに今は藩主ですらない。
武市は東洋を除いた直後藩政に介入し、東洋派をことごとく追い出してしまった。のたうち回りたいほど悔しいが、江戸の容堂に手出しはできない。ただ皮肉なことに、東洋の死と入れ違いになるようにして容堂は安政の大獄の処分から解放された。
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