(三)-2

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 東洋は土佐で参政として改革を再開した。新時代にふさわしく西洋事情を研究し、農政を改革した。時には江戸に出てきて、容堂に藩政改革について報告し、意見交換をした。

 容堂は海外の消息を教え、東洋は独自の展望を語る。西洋式帆船を建造し、船乗りを養成する。南島に乗り出して開拓し、皇国の栄光を千里の果てまで輝かせる。

 お互いがお互いの師であり弟子であったが、やはり気宇壮大な発想は東洋独自のものだ。

 夢ではございませぬ。分家の当主であられた殿が土佐藩藩主になられたのも、鎖国を続けていた日本が黒船来航により西洋諸国と条約を結んだのも、十数年前であれば夢物語でしかなかったことではありませぬか。

 その言葉に、鬱屈した胸中に熱が生まれてくるのを感じた。娘が生まれたことだけはめでたかったが、この謹慎の間に息子に先立たれ、実父も死去した。容堂本人も病に苦しめられ、気力がついえかけていたところだった。

 謹慎が解けたら土佐に戻り、二人で西洋式帆船の完成を見たい。できあがったら二人で乗り込み、まばゆい青空のもと、海風の中、どこまでも行ってみたい。お前がいるべきは私の隣、その逆もまたしかりなのだから。

 しかし気がかりなこともあった。

 東洋の強引な改革手法は、藩の保守派の反発を買っているらしい。そして開国による諸物価の高騰、政治の混乱により、攘夷こそが正義という扱いになっている。すなわち開国派は、殺されても仕方のないほどの悪ということだ。天皇の異人嫌いがそれに力を与える。

 文久元年(1861年)夏、江戸藩邸下屋敷で、藩士たちが土佐勤王党なる団体を結成したとの報せが入ってきた。藩士とはいっても実態は郷士の集まりだ。党首の武市半平太という名前にはかろうじて聞き覚えがあった。

 武術優秀で表彰され、江戸に剣術留学もした男だ。藩の金を使うことなので当時報告を受けたが、名前の響きが変わっているので少し印象に残っていたというにすぎない。

 土佐勤王党は尊王攘夷を唱えるとともに、容堂の赦免を幕府に願い出ることを主張しているという。

 好意自体はありがたくなくはない。迷惑と思うほど冷酷ではない。しかし徒党を組むのは、幕府が最も忌避するところだ。

 やがて、武市半平太は何かと東洋にたてつき、藩の保守派と接触を図っているという報せも届いてきた。「厄介な怪物」とは感じても喫緊の危険物とは思っていなかった土佐勤王党への印象が、これで一気に塗り替わった。

 文久二年四月下旬。土佐の国元から早馬で届いたのは、東洋の訃報だった。

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