第2話

 その日、蒼井美玲あおいみれいは、センター長の冬木からとんでもないことを申し渡された。

 美玲は、すみれホームヘルプサービスのスタッフだ。高校卒業と同時に働き始め、ようやく二級の資格を取ったばかりである。

「蒼井さん、悪いけど来月からもう二つのお家の受け持ちになってほしい。菊川さんと、鳥井さんなんだけど」

 は? と美玲は思った。

「あのでもセンター長……私は、半年間の初任者研修期間が終わってまだ二ヶ月ですし、今でも、週五回、午前午後で十二軒のサービスを行なっています。そして、もう一日は病院内での仕事が」

 美玲の受けもつサービスは、事情がある子どもの支援、そして老人の介護などである。

 これはかなり広範囲に及ぶサービスだ。

 今のところ、リーダーから指導を受けながらサブで行うことが多いが、美玲はこの仕事に自分の適性を感じている。

「ああ、その通りです。ですが、ご存知の通り、今は人手不足でね。菊川さんと、鳥井さんを担当してくれていた、中村さんが来月から妊娠軽減で事務の方に回ってもらうから」

「では臨時の人を雇っては?」

「もちろん求人は出してる。けど、今即戦力になれるのは蒼井さんしかいないんだよ」

 センター長は、すまなそうに言った。

「ほら……菊川さんは、ちょっと難しいお宅だろう? なかなか他の人には頼みにくい。その点、君は研修成績も優秀だったし、利用者さんからの評判もいい」

「ですが、今更シフトの入れ替えなんて」

「いや……それは私が責任を持ってやるよ。今蒼井さんが受け持ってる吉住さんを別の人に回すから。なんとかなる」

 吉住家は、美玲が週一で終日ハウスキーパーを務める比較的裕福な家庭で、介護ではなく家事手伝いだ。クレームなどもなくやりやすい。美玲としては良い受け持ちなのである。

「……でも、菊川さんは、結構なクレーマーで……」

「わかってます。どうか変わりの人が決まるまで、お願いします。あなたは若いし、仕事もできるから、決して悪いようにはしません」

 なんとかあらがおうとする美玲に、センター長は被せて言った。ついでに二十も年下の美玲に頭も下げる。無理を言っている自覚はあるのだろう。

「少しだけだけど、ボーナスも上げられます。ではよろしく!」


 やってらんないわよ!


 美玲は、休憩室のロッカーの扉を乱暴に閉めた。幸い、中途半端な時間帯なので誰もいない。

「やっと、少しだけゆとりができ始めたって思ったのに!」


 両親は、美玲が小六の時に離婚した。

 父親はDVのクズ野郎で、今は所在不明だ。

 残った母はしばらくは働いていたが、やがて無気力になり、わずかな貯蓄を食い潰した挙句、美玲が高校に合格した春に田舎の親戚の元に去った。

 美玲は、一人暮らしで奨学金をもらいながら学校を卒業した。

 両親を見ていると、堅実な職業に就き、安定した収入を得たいと思うのは当然だろう。

 成績は良かったし、進路指導の先生からは是非とも大学に行けと言われたけれど、一刻も早く独り立ちしたかった美玲は、すぐにでも役に立つ資格を持ちたかったのだ。

 それが介護職。家事ならずっとしてきたし、学校に行きながら勉強もできたので、ほとんど迷いなく決めた。

 実際には家事支援以外にも色々あって、結構な仕事の量だったけれど。


 ああ、憂鬱だ。


 働くことには不足はないし、忙しいのも嫌いではないけれど、若干十九歳の美玲に、大人とは時に大変理不尽な存在だった。

 押し付けられた菊川家の主婦は、裕福なのにどんなに一生懸命に仕事をしても満足しないで、粗探しをするので有名なクレーマーだ。だから今までベテランが担当していたのだが。

 一人暮らしの美玲には相談できる相手もいない。同年代の同僚もいず、学生時代の友人も少ない。

「ま、いいか! なんとかなるか」

 なんとかなる。してみせる。

 それは美玲の口癖だった。

 決して楽とは言えない高校以来の一人暮らし。でも、ほとんど遊んだり、買い物したりせずになんとかやってきたのだ。

「センター長もボーナスくれるって言ってたもんね。とりあえず今日はもう終わりだし!」

 美玲は、消耗品倉庫の片付けをしようと思った。

 ここは美玲の好きな場所である。どんなに掃除をしても、掃除用品や介護用品などが常に搬入されてきて、気をつけないとすぐに乱雑になる。

 奥の方から取ればいいものを、皆忙しいからと手前から取ってしまうので、いつも開けっぱなしの段ボールで溢れている。奥行きはあるが細長く、使いにくい倉庫なのである。

 美玲は、ここを使いやすいように整理するのが好きだ。

 少し置き方を工夫するだけで、目に見えて綺麗に使いやすくなるし、終わりがあって達成感のある仕事は自己肯定感に繋がるから、自主的にやっている。

 ちゃんと気がついてくれる人もいて、ありがとうと言ってもらえる時は素直に嬉しい。

「よし、今日は奥の方まで見てやろう。古い消耗品がそのままになってるかもしれないし」

 美玲が倉庫に入ると、早速新しい段ボールが開封もしないで山積みされていた。たった一週間見ないと、この始末である。

「あれ? こんなところにドアがあったかな?」

 晩秋の人気のない倉庫内は埃臭く、冷え切っているが、美玲は腹立ちまぎれに古い段ボールとアングル棚の間を縫って、ずんずん奥まで進む。

 細長い倉庫の一番奥に古い煉瓦塀が露出しており、そこに小さな扉が見える。人が屈んでやっと入れるくらいの小さな扉だ。


 そういえば、この施設のある地所って、以前は古いお屋敷があったって話だわ。綺麗に解体されたということだけど、使える部分は残したのかな?

 もしかしたら、倉庫の延長部分かもしれない。

 ちょっと見てみよう。


 美玲は棚の奥に身を滑り込ませる。痩せているのはこういう時に便利だ。体は細くとも、体力と力があるのは密かな自慢だ。

 おかげでここまでやってこれた。

 古い棚の間に身を滑り込ませ、露出した煉瓦塀に手をかける。そこは美玲の背丈よりも低い木製の扉がはまっていた。

「わ……これ開くわ」

 内開きの扉は少し力を込めると、すぐに奥の暗い空間を覗かせた。

 美玲は意を決して中を覗き込む。扉は小さいが、中はそれなりの空間があるようだ。真っ暗だと思っていたが、少し入ったところにぼんやりと光るものがある。

「なんだろ? 反射版かな? 意外と広いのね。これなら普段使わない物品をしまい込めそう」

 美玲は用心しながら、四つ這いで光る床の方向へと進んだ。

「なにこれ……光で文字が……何語だろ?」 

 そこには、アンティークな装飾のような見たことのない文字がぼんやり光っている。

 美玲が見つめる前で、文字を描く光が強くなった。

『私には君が必要なんだ! 出てこい私のミレ……ミレ!』

「えっ!? 誰?」

 美玲の尻の向こうで入ってきた扉が音もなく閉まる。

「え? ちょっと! わ……わぁっ!」

 思わず文字の中についた手は、そのまま床に飲み込まれた。

「きゃあああああ!」

 あっという間に美玲の体は光に包まれ、空間は元の闇となった。



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