第1話
暗い夜だ。
月も星も見えない
暗いと言っても、その空は澄み渡る闇色ではなく、濁った分厚い雲に覆われている。
その雲が見下ろす小高い丘。
はるか向こうに大きな街の灯が見える。
丘の上には、小規模ながら端正な佇たたずまいの古い館があった。
時刻は
館の窓は全て暗く沈んでいる。
いや──ただ一つ。
最上階の角の部屋にだけ、小さな灯りが見えた。
大いなる夜を照らすにはあまりに頼りない、小さな灯火。内部は古めかしく重厚な書斎のようである。
ぐっと近づくと、窓辺に置かれているそれは、人造の灯り、ランプだった。
ランプの前には大きな執務机。さまざまなものが乱雑に積まれるその前に、一人の男が座っていた。
長いガウンを巻きつけた痩せた男である。
男の髪は、生まれてから一度も切っていないのかというほど長く、椅子の座面でとぐろを巻いている。
美しい銀色なのに、手入れをしていないのか、ぼさぼさだった。
彼は熱心に書きものをしていた。
机の上は雑然としているのに、広げた紙の上はなにも置かれず、たくさんの文字や複雑な図形が書き込まれている。
それは、右に書かれるかと思えば、左に書かれ、次は上やら下へ飛んで、およそまとまった文章とは思えない。
図形は色の線や曲線が絡まる不思議な紋様だが、緻密なものもあれば、雑に描かれたものもある。
男は熱心にペンを走らせていた。
時々、いらただしそうに呻き声を吐き出したり、短い罵りの言葉が吐かれる。ただ、その声は大きな木管楽器のように滑らかに聞こえた。
「ううん、なかなか上手くいかんな。こんな感じではどうだろう……お、これなら」
ガリガリとペン先が走る。
彼は、彼の中の世界を紙面に構築していたのである。
「できた!」
突然声を上げて天井を見つめたその顔は──。
伝説の
整った鼻梁に薄い唇。
髪と同じ銀の瞳は、氷のように冷たい。
惜しむらくは、頬に青いインクのシミがついていることである。
彼の名はリュストレー・モーリス・シルバーフォレスト公爵。
王家の直系の血筋だが、性格と能力に少々難があって、自ら望んで臣下に下り、都郊外の屋敷で隠遁生活を送っている。
屋敷には誰も近づかず、屋敷の維持管理に必要な最小限の召使いも、彼の目に極力触れないよう厳しく命じられている。
だから、執務中(?)なのに、傍には茶のひとつも置かれていない。半分ほど減った水差しのみである。その横には日持ちだけはいい、堅焼きパンの
「うんうん。話が進む進む! いいぞ!」
そんなことなどお構いなしに、公爵は自分の思いつきに目を輝かせた。
「何も、こんなつまらぬ国を題材にしなくてもいい! 物語の舞台は……そうだな。完全に異界にしよう。この国のことを緻密に描いてしまっては後々面倒だし……異世界ならその辺りはごまかせそうだし」
さらさらとペンが走る。
「主人公は女がいい。ヒロインってやつだな……貴族じゃない。貴族の女は嫌だ。いろいろ面倒だからな。何も知らない少女ではなく、自立して仕事をしている庶民がいい。貧しくとも地道に働く女だな」
男はペンをインクの壺に浸す。
「メイドはどうだ? これならまぁ読み書き程度はできるだろうし、独身でも文句はない。この女がいろんな貴族の館に仕えて、その屋敷にまつわる秘め事や、悪事なんかを見つけさせる……うん、結構いい内容じゃないか!」
彼はすっかり満足して、自分がこれから書こうとする小説世界の女主人公の、登場場面を描き綴る。
「年の頃は二十歳過ぎ。この国にはない神秘的な黒髪、黒い瞳、中肉中背。派手ではないが整った顔立ち。だが彼女は仕事に疲れている。安易に頼み事する主人たちや、頑固で了見の狭い老人の相手をすることにうんざりしている……うん、いいぞ! これなら庶民感覚でベストセラーだ!」
男のペンは物語の構想を描いていく。流れるような筆跡が美しい。
「まぁ私はメイドの仕事なんぞ全く知らんが、そこは想像力で補うと。うん、身寄りの少ない彼女は、理不尽な世間に嫌気が差している。彼女は……今日も仕事を終えると……」
ふとペン先が止まった。
「ああ……まだ名前を決めていなかったな。やっぱり名前はいるな……ちょっと変わった響きがいい。この国の誰もが持たないような、風変わりで綺麗な響き……短くて親しみやすい……そう」
彼はペンを置いて、両手を投げ出し、目を閉じてしばし
鋭い眉が潜められ、長いまつ毛が覆う目元にしわができる。公爵は口の中で、むにゃむにゃといく通りもの発音を試してみた。
「うーん……」
と、突然、頭の中でひらめく言葉があった。
「ミレ……! そうだ、この響きがいい! 君はミレだ! 私には君が必要なんだ! 出てこい私のミレ……ミレ!」
深く艶やかな声が夜の空気に溶けていった。
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