桜花の影で

「おや、今年の桜はまた一層綺麗だね。去年に比べてより一層鮮やかな桜色に染まっているようだ」

「あら、本当に」

 男の言葉に女は短くそう返し、見事に咲き誇る桜の樹を見上げる。樹齢千年を超えるとも言われるその桜の樹は、今年もその枝に美しい花を満開に咲かせ、人々の目を楽しませている。

「今度子供たち二人を連れて花見にでも来ようか」

「あら、それは素敵な考えですこと。けれどお仕事の方は大丈夫なのですか? この時期はお忙しいとお聞きしましたけれど」

「なあに、それくらいどうにでもするさ。何せ、大切なお前と子供たちのためなんだから」

「まあ、嬉しい」

 女は笑い、夫である男の顔を見上げる。年の離れた夫の頬は、桜の下に立っているというだけでは説明がつかぬほど赤く染まっているのが見て取れる。女はまた少し笑いを零し、ふっと表情を消して桜の樹を見上げた。

 ――あの時、思いを寄せていた男性に愛を語られたのもこの桜の樹の下だった。

 まだ女が女学生だった頃の話だ。男とは近いところに通う学校があり、家も近くにあったから学校への行き帰りで自然と言葉を交わすようになった。二人はお互いがお互いに思いを寄せていて、そしてそれを二人とも分かっていた。けれど男は成り上がりの家に生まれ家中で疎んじられている三男で、女は名だけが残るけして豊かではない家の一人娘だった。結ばれることは難しいと分かっていたけれど、いや、分かっていたからこそ、決まった道を二人で言葉を交わしながら並んで歩く、その限られた時間が何よりも幸せな時間だった。けれどある時、男は道を逸れようと女に言った。いつもの道を外れ、桜を見に行こうと。

 ――その言葉が、その時の女にとってどれほど嬉しかったことか。

 男は桜の下で女に愛を語った。口にせず留めておくことで誰にも触れさせず守ろうとしていたその心を、曝け出して女にぶつけてきたのだ。

 男にどう応えるべきか考えて、次の日、女は男に自分の縁談が決まってしまっていることを伝えた。男は相手の名前を聞いて表情を変えた。女が縁談を持ちかけられたのは、最早この町に名を知らぬ者のいない華族の大商人の跡取りであった。

 女は男と二人で居られるのなら、家も財産も何もかもを投げ捨てて良かったのだ。どんな苦労をしたって、男と一緒に生きられるなら、それが幸せだと思ったのだ。けれど、それを伝えても男の表情は変わらなかった。

 男は最後に女に言った。

「俺は以前貴女に語ったように、貴女を愛しています。でも、だからこそ幸せになってもらいたい。俺と駆け落ちても、俺は貴女を幸せには出来ない」

 愛しているから身を引くのだと語る男に、すうと女の心は暗く沈んでゆく。きっと男が語ってくれていた愛は、自分が男に対し望んでいた愛とも、自分が男に対し抱いていた愛とも違っていたのだ。はらはらと涙を流しながら女は言った。

「貴方の言う愛は、わたしがあの日貴方の言葉を受けて思い描いていた愛とは違うのですね」

 男は答えず目を逸らす。

「それでは、今後わたしの語る愛は須く義務の事となりましょう。政略婚とはそのようなものなのですから。……けれど、例え一時でも美しく幸せな愛を信じられたことは、わたしにとって何よりの幸福でもありました。本当に、嬉しかった。……貴方もどうか、お元気で」

 これが、男と交わした最後の言葉になった。その日のうちに元々結婚するときに辞めるはずだった女学校をすぐに辞められるよう親に頼み、夫と結婚してからは男と顔を合わせることもなかったから。

「……ねえ、あなた」

 呼び掛ければ夫は桜から目を離し、優しい表情で女を見つめる。

「来年の花見は、五人で行きましょうね」

「五人? 私とお前と、子供たち二人と……」

 そこまで言いかけた夫はハッとしたように表情を変え、

「も、もしかして三人目か!」

「ええ。つい昨日、お医者様にそう言われましたの」

「おお、そうか! 三人目か! 娘か、息子か、いやまだ分からんが、そうかもう一人生まれるのか!」

 人目も憚らず大きな声で喜びを露わにし、女を力一杯抱きしめようとする直前で慌てて身体を離し痛くなかったかと心配そうに問う夫の姿に、女はころころと笑い声を上げた。

「どうか落ち着いてくださいませ。あんまり騒いだらお身体に触りますわよ」

「あ、ああ。そうだな。すまない。そうだ、今すぐ車を呼ばねば。子の居るお前を歩かせるなど」

「違います。貴女の身体に、です。喜び過ぎて転びなどしたら大変ですわ」

 そうか、としょげたような声を出す夫にまた笑みを浮かべながら、

「桜の下を少し回ってから帰りましょう。ね?」

「う、うむ」

 姿勢を正して額の汗を拭きながらも、無意識に口元が緩んで笑みを隠しきれない夫の顔を見上げる。

 政略婚に於いて、お家のため、妻と成る女は夫を支え愛し子を成して家を守る。

 これは義務だ。

 その考えは変わっていない。

 けれど、義務から生まれたこの感情も、きっと同じように愛という名で呼び表せるのだと、女はふと思った。夫に腕を絡め、新しい命を宿した腹に掌を添える。心の内に湧き上がる感情は、あの日あの男に対して抱いた感情とはまるで違うようで、その根底にある暖かさは驚くほど似通っている。

「愛していますわ」

 不意打ちの女の言葉に夫がまるで石にでもなったかのように動きを止める。ゼンマイ仕掛けの人形の様に向けられた顔に微笑み、もう一度、

「あなた。愛しています」

「お、女の方からそのようなことを言うものではない! ま、ったく。はしたない」

 厳しい言葉とは裏腹に、夫の顔は真っ赤に染まり頬は緩んで眉は情けなく八の字に下がってしまっている。夫はげほんげほんと大袈裟な咳払いの後に、小さな声で、

「わ、私も愛している。お、お前が、私の妻となってくれたこと、心から感謝している」

 と呟くように言った。女は心底幸せそうに笑い夫に身を寄り添わせ、夫もまた不器用に女の背中に腕を回した。

 強い風が吹き、花びらがまるで踊るように広がり、散っていく。身を寄せ合った夫婦は花びらの流れを目で追うようにして桜の樹を見上げた

 風が桜の枝を揺らす。花びらがはらはらと舞い散る。見事に咲き誇る美しい桜は、風に枝をそよがせながらただ静かに佇んでいる。

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