命煙る

 その子供の短い人生を一言で言い表すのならば、それは憐れと言うに他ならないだろう。望まれずして生まれ、気にかけられぬまま育ち、周囲の誰もに疎まれる人生を送った。

 子供のおどおどとした自信なさげな態度は、ガラスが擦れ軋むような不協和音に溢れる夫婦間の鬱憤を発散するのは最適だったのだろう。

 そのみすぼらしくロクに風呂にも入らぬ薄汚れた風貌は、教室という一所に押し込められた思春期の子供たちが、その鬱屈をぶつけ虐げる相手として丁度よかったのだろう。

 しかしその如何なる要素もその子供を蔑み、嘲り罵倒しても良いという理由付けになどなりはしない。何よりそれらの望ましくない要素の多くは、子供を取り巻く環境が無理矢理に子供に押しつけた鎖と呪いであったのだから。けれど不幸なことに、その子供の周りの大人も子供も、それを理解する者は一人として居なかったのだ。

 居場所のない子供が救いを見出したのは、物語の世界だった。母親が学校に呼び出された後、一度だけ連れて行ってくれた床屋で漫画を読んだ。待ち時間でしか読めなかったため、読めたのはたったの五巻だけだったが、それは子供を魅了するには十分な熱量を孕み子供をその世界へ迎え入れた。子供は次に散髪にいける日を熱望した。けれど子供の期待は裏切られた。その後子供が床屋に連れて行かれることは二度と無く、散髪もハサミを渡され風呂場で自分でするように言い渡されるようになった。

 それから子供は親の置いていく僅かな食費を切り詰め、漫画の載っている雑誌を買うようになった。床屋で見た漫画の雑誌も買いたかったが、週に一度など買えるわけもない。月に一度出る雑誌を毎月貯めたお金で買って、家の裏に隠して何度も何度も読んだ。話は分からずともただ絵と台詞を追っているだけで心が浮き立った。現実を忘れ楽しく心躍る世界に没頭できた。月に一度、雑誌を買って漫画を読む。たったそれだけのことが、千円にも満たない一冊の雑誌が、その時の子供にとって唯一の生きる寄る辺で、命を繋ぐ意味だったのだ。

 ある日、家に帰ると隠していた雑誌が乱雑に縛られて玄関に置かれていた。思考が停止する。足を踏みならし近づいてきた親は子供を殴り飛ばし、雑誌を指差し怒鳴りつけ、無理矢理に財布を奪い取った。

 ――ああ、明日は、待ちわびていた雑誌の最新刊の販売日だったのに。

 次の日、子供は学校に着くと教室には向かわずそのまま学校の裏手に回った。

 そこにはもう使用されていない焼却炉がぽつんと放置されいた。酷くさび付いた蓋を開けると、錆と煤、それとなんだかよく分からない嫌な臭いが中から立ち上ってくる。

 子供は盗んだカッターを取り出し、手首にあてがった。手首には既に幾筋もの赤い傷痕が横向きに刻まれている。……手首を横に切ってもそうそう死ぬことは出来ない。本気で死にたいのであれば、手首は縦に切るべきだと子供は知っていた。今までは横にしか切れなかった。怖いから。恐ろしいから。死んだら、二度と漫画の続きが読めないから。けれど、雑誌を買っていたことを知られ財布を奪われた子供の手は、驚くほど軽やかに赤い筋を断ち切り手首を縦に切り裂いた。赤い筋が走り、一拍おいて真っ赤な血が盛り上がり腕全体を赤く染める。

 子供はそのまま焼却炉に潜り込んで内側から蓋を閉めた。このまま、ここで誰にも知られぬまま死んでしまおう。壁に身を預け目を閉じる。薄れゆく意識の中で、声が聞こえた。

『寄越せ』

 何を、と子供は朦朧としたまま答える。声は、

『お前の身体。お前の命。お前の人生』 

 と短く答える。こんなものが欲しいなんて、随分と物好きだな。と子供は思う。

『人としての生。人としてこの世に在れる身体。人としてのこの世での居場所。全て実体を持たず無為に漂うことしか出来ぬ我等の焦がれて止まぬものだ。要らぬのであれば寄越せ』

 いいよ。と子供は言う。

 こんな辛いだけの人生、こんな苦痛ばかりの纏わり付いた身体、欲しいというなら好きに持って行けばいい。

 瞬間、爆発的な笑い声が子供を包み込んだ。その心底嬉しそうな笑い声が子供の意識を揺さぶり、もみくちゃにする。

 フッと気がつくと、子供の身体はふわりと浮かんでいた。真っ暗な焼却炉の中をゆらゆらと漂い、更に狭いトンネルのようなものをくぐってみる。顔を出すとそこは煙突の上で。ふわりと煙突から抜け出た子供は自分の身体を見下ろした。一見、今までと変わりない自分の身体のようで、風が吹く度に身体はふうわりと揺らいで崩れる。まるで煙が風に吹かれる様に。

 ああ、自分の身体は煙に置き換わったんだ。子供は漠然とそう考えながら手を目の前にかざした。揺らいで透けるその腕には真っ赤な幾本もの横筋と、それを断ち切る長く太い赤い傷。血はもう流れていない。

 不意に強い風が吹いた。

 子供の身体は風に飛ばされ上空に舞い上がり、みるみるうちに景色が流れていく。学校も町も自分の家も、遙か彼方に遠ざかっていって。視界を上向かせれば、いつの間にか暮れ始めていた夕陽が鮮やかな橙に輝いて間近の雲を見事な色彩に染め抜いている。

 ああ、近くで見る夕陽ってこんなに眩しくて綺麗なんだ。

 風に身を任せ、地上を遙かに見下ろしながら、子供は生まれてはじめて軽やかな笑みを浮かべた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る