桜の下には

「人の語る愛とはつまるところ何だ?」

「執着」

「ならば恋は」

「未練と独占欲」

「……情緒の無い回答だのう」

 呆れた口調で言えば、

「人心を解さぬ妖しのモノに情緒が無いと言われるとは」

 行燈一つの灯る薄暗がりの中、正面に座した男がくすりと笑いを零す。

「いかにもわたしは人の情緒を解さぬよ。だから人のそなたに問うたのに」

「桜鬼が何故人の情緒などを問うよ」

 笑い含みの言葉に、桜鬼と呼ばれた人影は手を伸ばし行燈をつつく。人に似たその手は木肌のように黒く、ざらりとした質感をしている。

「人はわたしの花を介して人に愛やら恋やらを伝えるだろう。それ故、それがどんなものなのか知りたくなったのだ」

 男の向かいに座る妖は齢千年を超す桜の精である。桜の気が長い時を経て練り固まり鬼――人ならざるものへと成った。桜鬼と男の今居るここ、暗闇市は芦原中国と黄泉国との境に位置する、人と人ならざるものが対等に存在できる数少ない場の一つとなっている。故に、この場には提灯一つ。闇にも光にも属さぬ薄暗がり。それこそが暗闇市を暗闇市たらしめるからだ。

 桜鬼が男と出会ったのは気まぐれに立ち寄った酒売りの屋台だった。暗闇市は狭間であるが、時を経るにつれ人の訪れは緩やかに減少していた。故に、人が酒を豪快にかっくらいながら、己とは理を違える存在と臆せず言葉を交わしている姿に興味を持ち、声をかけた。

 妙に馬が合ったその男と邂逅を繰り返した後、今ではこうして部屋を取って時折酒を酌み交わすようにまでなった。

「そう言われてもなぁ」

 スッと障子が開き、徳利とお猪口が二つずつ差し入れられる。ありがとな、と男は自分の分を手に取り、桜鬼も腕を伸ばし徳利とお猪口を引き寄せる。

「……御膳は」

「今日はいいよ。帰るときに八塩折一合、持たせてくんな」

 桜鬼は徳利の中の液体をお猪口に移し指を漬け、

「人の身で八塩折を嗜むか」

「酒にゃ強いのよ」

 男はお猪口になみなみと酒を注ぎ、一息であけると次を注ぐ。

「それで、愛……ねぇ」

 お猪口を呷り、顎に手を当て首を捻る。

「執着とお前は言ったが」

「仏教用語に即せば欲望の充足を求める渇望だな。しかし西洋の言葉が入ってきて愛がLOVE の訳語になってからはどうにもなぁ」

「ほう」

「更に時代を遡ればいとしいと思う気持ちが愛だ。お隣の儒教に見れば人と人との間に完成される仁から生まれるものだったか……」

「誤魔化すな。わたしが聞きたいのはそんな屁理屈ではない」

「……だろうなぁ」

 お猪口を経由せず直接徳利を傾けた男は、しばしの沈黙の後、

「ええい、知らん知らん。大体な、俺が愛だの恋だのを理解した気になってフラッと浮かれられる様な人間ならな、こんなとこでお前みたいなのと管は巻いちゃいないのさ」

 男の言いようにふ、と笑いを漏らし、徳利から酒を注ぐ。

「それは道理。しかしいつぞや娘御を前に随分と雄弁に愛を語っていたではないか」

 男は酒を飲む手を止める。行燈に照らされた口元が顰められているのが見えた。

「見てたのか?」

「さてなんであったか。あなたの事を思うだけで、あなたの声を聞くだけで、あなたのその柔く温かい手が触れるだけで、私の心はこんなにも高鳴るのです。これが愛でなければ何だと言うのでしょう、と」

「……あのな、俺を辱めて楽しいか」

「これが楽しいという感情であるのならば、なるほどわたしは今楽しいのであろうな」

 まったく、と呻くように言った男はやけのように酒を飲み干し、指先でお猪口を弄った。

「まだ学生の時分だったからな。俺も青かったのよ」

「その娘御とは添い遂げなかったのか」

「あの娘は卒業前に他の男との婚姻が決まり学校を辞めていったそうだ。その後のことは知らん。所詮、学校の行き帰りに同じ道を辿るだけの仲だったからな」

 ふぅん、と相づちを打ち、

「だがその時、そなたがその娘御に抱いていた感情は愛だったのであろう?」

「いや、きっと違うさ」

 気のない返事を返し、殆ど空になったであろう徳利を口元に運ぶ。

「彼女はここらじゃ知らぬもののいない美貌の持ち主で、俺はその見た目に惹かれただけ。……それだけだ」

「ほう、見た目に惹かれるのは愛ではないのだな」

「……」

 男は返事を寄越さずに視線を逸らす。

「……しかしお前、大層長い年月生きているのだろう。それならばまだ二十と幾年しか生きていない俺よりも余程人の営みを見てきたろうに。俺になぞ聞かずともいいのではないか?」

「長く生きたと言えど、半分ほどの年月は桜として生きておったよ。こうして妖となっても、人の世とは関わらずゆるゆると生きていてなぁ。最近人の世に心惹かれたは良いものの、人の営みはとても追い切れぬほど目まぐるしく変わってゆく。次々とつがい子を成し死んでゆく短い在り方の中で、豊かに心を交わし合い命を繋いでいることに気がついたのも近頃のこと。故に、そなたに問うてみようと思ったのさ」

 男は驚いたように僅かに身を引き、次いで、なるほどなぁと溜息と同時に吐き出した。

「そうか。あまりに自然に会話できるものだから、お前が人とは違う存在だということを忘れていたよ」

「これでも人に寄せたつもりではいるのだがなぁ」

「人外じみてんのはそういうとこよ。大体、時間の感覚からして俺達と噛み合わないだろう」

 そうか? と問えばそうだよ。と呆れたような返事を寄越し、

「今日とて俺を三年も放置していながら何事もないように酒を交わしているだろう。その実、俺は少しばかり腹を立てていたのだぞ? 毎度、この竹櫛屋に足を運び桜鬼は来ているかと声をかけ、来ていないと返される俺の気持ちは分からんだろうさ」

「三年……」

「お前の花が咲いて散ってを三度繰り返すほどの時さ。人にとっては十分長い」

 桜鬼はすまぬ、と素直に謝罪の言葉を口にした。三度開花するほどの時が人にとっては『長い』と取られるのか、と内心で呟く。

「まあいいさ。お前が俺に飽きてどうでもよくなったから構うのを辞めた、というのではないのならば」

 苦笑し、男は言う。

「そういうわけではない。そなたと話をするのは楽しい。……しかし、わたしとて気持ちは分かる。だからこそすまぬと、改めて言わせてくれ」

「気持ち?」

 怪訝そうに問われ、桜鬼はああ、と頷く。

「居るかと問うて居らぬと返された時の気持ちよ。今まで関わりのあった人間は、数こそ多くはないが、皆そうだった」

「……」

「幾度か、好ましく感じる人と出会ったこともあった。けれど語らい、情を交わせど僅か時が過ぎれば皆わたしの前から姿を消し、逢うこと叶わなくなってしまった。しかしそうか、わたしは人の時の短さを、本当の意味で理解してはいなかったのだなぁ」

「……寂しいことだな。それは」

「ああ。そうだな」

 男は何やら考え込むように黙りこくり、ふう、と大きな溜息をついた。

「責めるわけじゃないが、やはりお前は人とは理を違える存在だ。人の語らう愛だ恋だのといった情はきっと理解は出来ないだろうよ。そういうものだ」

「しかし……」

「人には人の理。妖には妖の理。袖すり合う事はあれど交わることは出来ぬだろう。それで良いのさ。それが正しい形なのだから。……お前が気に病むことではない」

 突き放すように淡々と言って、男はゆっくりと立ち上がった。そのまま障子を開け、おおいと人を呼ぶ。

「今日はもう帰るよ。堪忍な。直ぐにまた顔を出すから、お前もこの前のように三年などと時間を開けてくれるなよ」

 冗談めかした声音ではあったが、どこか不安定な揺らぎを伴うその声に、ざわりと不安が心の奥底を撫で上げていく。

「なあ、もう少し居らぬか」

「もうこちらの世では夜になる。勝手気儘の出来る不出来な三男坊の立場といえど、夜遊びまでは許されぬのさ」

 ではな。と言い残し、タンと障子が閉められた。軽い足音と共に提灯の明かりが去って行く。

「桜鬼様、灯りをお下げ致しましょうか」

「まだ帰らぬ。暫しこのまま、灯しておいてくれ」

「かしこまりました」

 声が遠ざかり、静まりかえった部屋に揺れる行燈の光が残された。

「人の生の、なんと短い事よ」

 ポツリと呟く。驚くと同時に、それを実感したことで様々な事象が妙に腑に落ちた。

「いずれあの男も……」

 あの男は人の歳で数えてまだ若い筈だ。しかし人の寿命は驚くほど短く、いつまた目の前から姿を消してしまう事か。余程気をつけねば、少しばかり眠りについた合間に命絶えることもあるかもしれない。実際、あの男の言によれば僅か間を置くだけのつもりの『三年』は、人にとっては随分と長い年月であったという。

 仄淡い提灯の灯りに手――人の手に寄せた身体の一部を伸ばし、かざす。提灯の灯りが遮られ、指の隙間が橙に染まった。

 しばらくそのまま、ぼんやりと動きを止めていた。と、急に障子の向こうから、

「桜鬼様」

 と声がかかった。

「お連れ様がいらっしゃっております。お通ししてもよろしいですか」

「構わぬ。通せ」

「かしこまりました」

 ペタペタと去って行った足音は直ぐに二つに増え、提灯の灯りがスウと障子を滑り人の影を落とす。

「御酒のご用意は」

「今日はいいよ。ありがとうな」

「また何かございましたらお声がけくださいませ」

 障子が開く。

「おや、随分と早い……」

 言いかけて口淀んだ。桜鬼の感覚としては早いが、人にとっては如何程の時間かを計りかねたからだ。それを察した男はクスクスと笑いを零しながら正面に胡座をかいて座り、

「十日ぶりだな。俺の感覚としては、少々久しいかな、という所だ」

 と言う。

「そうか。久しぶりか」

「ああ」

 男の返事は妙に歯切れが悪く、座ったはいいものの視線は斜め下に逸らされている。

「今日は飲まぬのか」

「まだいい。桜鬼が飲みたいのであれば、頼めばいい」

「そなたが飲まぬのならわたしも良い」

 二人の間に沈黙が降りる。それを破ったのは、男の小さな溜息だった。

「今日はな、お前に別れを言いに来たのだ」

「別れ?」

 言葉の意味を捉えきれず繰り返す。男は首を縦に動かし、

「俺はもうここには来れん。桜鬼と逢うのもこれっきりになる」

「何故」

 問えばしばしの沈黙の後、

「縁談が纏まったのでな」

 と短く言う。

「縁談とな。妻を娶るのか」

「まあ、そうではあるが、娶られるのは俺の方なのだよ」

 ぽつりぽつりと言葉を零していくように男は語る。

「お家のための政略婚で、相手方のお嬢さんに俺が見初められた。相手の方が家格が上なのだ。故に、婚姻が成れば俺は今までのように誰の目にも囚われず自由に遊ぶことは出来なくなる」

「……相手の娘御を愛しているのか。故に契るのか」

「愛すのよ。それが俺のお役目となるのだから」

 答える男の声は淡々と、心の籠もらぬ冷たい響きをしている。

「そなたは、それで良いと思っているのか」

「あまり虐めないでくんな」

 声を荒げ、男が言う。

「俺とてお前と会えぬようになるのは名残惜しい。だが、逆らうことも出来ぬのさ」

「何故に。嫌なら逃げてしまえば良いだろうに」

「簡単に言ってくれるな。それは出来ぬ。それをすれば、我が家族に責が及ぶ」

「……では、わたしとそなたはこれきりか」

 低く問う。男は短くああ、と答えた。

「最後に酒でも酌み交わそうか。人を――」

 男の言葉を遮りスッと手を伸ばしたその動作に、男は怪訝そうに言葉を止める。行燈に手を添え、クシャリと張られた紙ごと、中の炎を握りつぶした。部屋が暗闇に沈む。

「おい、桜鬼よ……」

 衣擦れの音がこちらに向き直った気配がする。

「決まりを守らねば」

「過ぎたる光も過ぎたる闇もここ暗闇市の理を外れ、場から弾かれ追いやられる」

 呟き、腕を男に伸ばし、掴む。

「ここは最早狭間にあらず」

 男は少し藻掻く素振りを見せ、直ぐに動きを止めた。

「俺を、引きずり込む気か」

 桜鬼様のおかえりです、という言葉が遠く響く。

「そなたは愛を執着と答えたな。愛は分からぬが執着は分かる。そなたが遠くに行くのが嫌だ。会えぬようになるのも、語らうことが出来なくなるのも耐えがたい」

「……」

「そなたがかつて出会った人らのように、わたしの知らぬ間に命絶えるのも到底許せぬ」

 ず、と闇に、巨木に意識を沈ませ同化させていく。根を張り広げたその中に、男を抱えて包み込む。

「故に、そなたを根之堅州国まで連れて行く。共に在れ。ここは」

 ――死してなお続く生の満ちる世界だ。

「……長い年月を経たモノは後に神になるというが、なるほど俺は神に魅入られてしまったか」

 呟く男の声音は驚く程に柔らかく、そこに恐れや怒りはない。男の腕が桜鬼に回された。それに答えるように、男の身体に根を沿わせ、大切なものを守るように包み込んでゆく。

「なあ、これは愛であろうか。この醜い執着は、本当に愛と呼ぶのに相応しいか」

 問うと、フッと根の中で男が笑う気配がした。

「お前がそう感じるのであれば、きっとそうなのであろうよ」

 答える男の声は、優しく語りかけるような響きを伴っていた。


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