反魂

 猫が死んだ。

 十年以上の月日を一緒に連れ添った猫だった。

 数匹の子猫を保護したという友人から譲り受け、以来ずっと一緒だった。

 グレーに薄く縞のある、綺麗な緑の目をした猫。

 暖かくて柔らかで、抱き上げれば不満そうに鳴きながら身を捩り、そのくせ気まぐれに膝に乗ってはしどけなく両の脚を投げ出してごろごろと喉を鳴らした。

 ピンクの鼻の湿った冷たさ。ざりりとした舌で繰り返し嘗められるくすぐったさ。ふみふみされる時に布越しに食い込む小さな爪の鈍い痛み。何もかもが幸せで、大好きだった。

 年をとって澄んでいた目は白く濁り、足腰は衰え、名前を呼んでも反応を返さない事が多くなった。それでもグレーの毛並みは変わらず柔らかく、近づく足音の振動を感じ取って振り向く顔は愛おしかった。

 いつものように仕事に行って、いつものように帰ってきたのに、猫はいつものようにわたしを迎えには来なかった。

 その時点で、全てを察した。

 荷物を放り出して靴のままリビングに駆け込むと、お気に入りのクッションの上で猫は冷たくなっていた。

 口元に乾いた吐瀉物をこびり付かせ、クッションはじわりと排泄物の名残で湿っていた。

 いつもと変わらぬ柔らかな被毛が固く冷たい肉体を覆い隠している。

 抱き上げても柔らかに湾曲しないその硬さは、尻尾すらも重力に逆らいクッションの上で丸まっていたそのままの形を保っている。

 うっすら開いた目蓋の奥に、白く濁った目がのぞいた。

 目が合った。

 

 次の日、会社に体調不良を告げて休みを貰った。昨日ひたすら泣き、喚き、絶叫したガラガラの喉から出た声を聞いて、電話口の相手はそれを疑うことなく、心配そうな言葉を残し電話は切れた。

 わたしはスマホを手から滑り落とし、ベッドにうつ伏せ顔を押しつけた。

 そうしないと、口から漏れる呻き声と泣き声が周囲に響いてしまうから。ペット可物件で防音はある程度されているとはいえ、感情に任せ節操なく大声を張り上げる事は出来なかった。

 こんな状況でも理性が残っている事に安堵する気持ちもあり、愛しい猫が死んだというのに隣人への迷惑を一番に考えてしまう自分が腹立たしくもあった。

 猫の身体を抱きしめて、柔らかい毛並みを撫でながら抜け殻のように涙を零し続けているうちに、気がついたら部屋の中は薄暗くなっていた。

 吐瀉物がこびり付きごわついた口元の毛からツンと異臭が香る。どこから入ってきたのか、小バエがうっすら開いた目蓋の下に止まった。

「……ふざけんな」

 呟いて、ハエを乱暴に追い払う。その時触れた鼻は悲しくなるほど乾ききっていて、ざらりとした感触を手に残した。

 このまま、このまま時が止まればいいのに。いや、ううん。時が戻ればいいのに。この子が生きていた時に。このこと一緒に過ごしていた幸せな時間に。

 願えど、その思いをあざ笑うかのように部屋に差し込む明かりは薄らぎ、しんと闇が満ちていく。

「ペット葬儀場……」

 手探りで拾い上げたスマホは真っ暗な画面のまま、何度電源ボタンを押しても画面は点かない。充電が切れてしまっているのだろう。諦めてスマホを投げ捨て、猫を抱いたまま立ち上がった。

「やだ……やだよ……」

 呟く。視界が立ちくらみでぐらりと揺れて、ちかちかと点滅した。然るべき機関で焼いて骨にする。それが一番正しい手順だ。でも。

 ふらりとそのまま扉を開けて外に出る。廊下に灯る明かりが白々として目に痛い。階段を下り、アパートの裏の狭い隙間に足を踏み入れた。元々は通路だったのだろうそのスペースは、周囲に乱立したアパートなどの建物に潰され、完全に死んだスペースとなっていて、ここに足を踏み入れる人間は殆どいないし、窓の面した部屋もないので人目につくこともない。猫を静かに地面に横たえ、指を黒々とした土に突き立てた。

 想像したより柔らかい黒い土を掻き出し、穴を掘った。何かにとりつかれたように素手で穴を掘り続け、猫がすっぽり収まるだけの穴が出来あがったところでようやく腕が止まった。

 猫を穴の中に下ろす。黒い土の欠片が柔らかい毛並みにつくのが無性に悲しかった。猫の頭を撫で、喉をくすぐり、泣きながら土をかけて穴を埋めた。掘るのにはあんなに時間がかかったのに埋めるのはあっという間で、みるみるうちに猫の姿は土に覆い隠され、僅かに盛り上がった土の山が目の前にできあがった。

 それから、どうやって部屋まで帰ったのかは覚えていない。次の日起きたら、シーツが泥で汚れていた。


 猫を埋めて一週間が経った。猫の居ない生活は相も変わらず続いている。

 起きてご飯を食べ仕事に行って帰ってきてご飯を食べ、風呂に入って寝る。

 乱れた寝床にグレーの細い毛が幾本も幾本も落ちている。このグレーの毛が増えることは、二度とない。

 押し入れから掃除機を取り出して、ゴミ入れを開けた。

 埃と毛を丁寧に丁寧により分け、埃はまたゴミ入れに戻し、より分けた猫の毛を小さなジップロックに収め、鞄の奥にしまい込む。

 部屋の端で、あの時から置きっぱなしのクッションが嫌な臭いを放ち続けている。

 猫の居ない家でご飯を食べて、猫の居ない家で眠り、猫の居ない家を出て猫の居ない家に帰る。

 これが今のわたしの「いつも通り」になってしまった。

 そして、仕事終わりには毎夜猫を埋めた路地裏まで足を運んだ。猫の墓に手をあてて、話しかける。話しかける内容は今日あったことだったり、いつも猫に語りかけていたような、中身のない言葉だったりと様々だ。その時だけは、もう二度と居ない猫が近くに居るようで、僅かに心が安らいだ。

 今日もいつものように猫の墓に足を運び、すっかり平らになってしまった墓に手を当てて話しかけていた。スマホをつけて時計を見ると、もう三十分は過ぎている。

「……名残惜しいけど、また明日ね」

 語りかけ、重い腰を上げる。地面の上に置いた鞄を手に取り、土を払って振りむいて、思わず目を見開いた。

「何、これ」

 路地の先に広がるのはアスファルトとマンションやアパートの列、それと濁った小さな用水。そのはずだ。そのはずだった。

 建物の隙間から淡い橙の光が漏れ、人がゆるゆると行き交っている。夏祭りのような雰囲気だが、それにしてはやたらに暗く、行き交う人々の手には提灯が握られている。吸い込まれる様に隙間からするりと身を滑らせ、喧噪の中に足を踏み入れる。そこに広がっていたのは、仄淡い提灯の灯りで満たされた、この世のものとは思えぬ夜市の光景だった。

「どうして、私、さっきまで」

 キョロキョロと周囲を見回す。頭上には淡く提灯の列が灯り、暗くはないが周囲を行き交う人々の顔が判別できるほどではない。

「……おや、提灯を持っておらぬのか」

 背後からかけられた声にぎょっとして振り向くと、そこには私とさして身長の変わらぬ、灰色の浴衣を纏った男が提灯を片手に立っていた。奇妙なのは、その顔には白い布がかけられ、鼻から上を覆い隠されているその異様な風貌だ。布に覆われていない形良く整った唇が柔らかく弧を描いている。

「あの、ここは」

「ここは暗闇市。狭間に通ずる特別な夜市よ。迷い込んだのも何かの縁。これを授ける故、せっかく来たのだ。ゆるりと楽しまれよ」

 男の差し出した提灯を流れのまま受け取ってしまう。淡い橙の灯るそれが、私の手元を柔らかく照らした。

「えっと、あなたは」

「掟さえ守れば危険は無い。掟は二つ。一つ。一人につき、提灯一つ。それ以上灯りを大きくしてはいけない。明るくなってしまっては、暗闇市は暗闇市たり得ないから。一つ。売られている物を無闇に照らしてはいけない。ここの商品達は灯りに晒されるのを好かぬから。この二つさえ守れば、あとは自由に楽しめば良い。きっと目に新しいものを沢山見つけられることだろう」

 にこりと男は微笑む。ここは何なのか、何故自分はこんな所にいるのか、何一つ分からないけれど、男の説明を聞き終わる頃には、『ここは暗闇市で、決まりを守って楽しめばよい』ということが妙にはっきりした理解を伴ってストンと腑に落ちてしまった。

 疑問は消えぬが、それを何か強い力で納得の下に押し込められてしまったような。けれどその違和感も周囲の非現実的な喧噪と賑わいの中に沈んで行ってしまう。

「でも、楽しむと言っても」

「ここには様々な店が揃っている。お主の趣向に沿うものもきっとあろうぞ。ただ見て回るだけでも人の身には興味深かろうなぁ」

 でも、と私は元来た道を振り返る。店と店の隙間にぽっかりと空いた黒い隙間。そこはここの柔らかな橙とは隔絶した白々とした光が微かに差し込んでいる。

「……そんな気分にはなれない。楽しむなんて」

 提灯を返そうと男に差し出したが、男はそれを受け取らずに、

「おや」

 と首を傾げる。

「何ぞ気分の沈むことでもあったのか」

「……猫が」

 呟こうとして、一つの可能性に至り、思わず私はあっ、と大きな声を出す。

「死んだものを生き返らせるような店はありますか? ここには色々な店があるんでしょう?」

 期待を込めて聞いたが、男は口を難しそうにへの字に結ぶ。

「一時的な反魂はあれど、蘇りは理に反する。理に反する事は出来ぬよ」

「駄目……ですか? 本当に大切な猫なんです。生き返るなら何でもします。本当に、駄目ですか」

「猫ならあるよ。ここを行った先の先。香根屋へ足を運んでみな」

 ふいに、背後から声がした。振り返ると、提灯の灯りの届かぬ頭上から大柄な男が声をかける。

「犬や鳥は駄目だが猫なら行ける。なんせ猫は根子で九つの魂を持つからな」

 大柄な男はそれだけ言い残し、声をかけてきたときと同様に唐突に、ふらりと私の横を通り過ぎていく。

 大柄な男の残した言葉の意味は正直よく分からなかったが、小柄な灰色の男に視線を向けると、ニコリと笑って頷く。

「あちらに向かうよい。香根屋はここでは老舗。店構えから直ぐに分かるであろ」

「あの、あなたは」

「ここからは一人で行くが良い。なぁに。決まりを守れば人も妖も危険なことなどありはせぬさ。よき買い物をしてくるが良い」

 男は私に背を向け、カロンと下駄の音を残して去って行った。ぼんやりとその後ろ姿を見送り、完全に姿が見えなくなったところでハッとして大柄の男の指差していった方向に振り向いた。

「この先に行けば、私の猫が」

 私の猫が生きて帰って来てくれるなら、私は何でもする。

 足早に人をかき分けて真っ直ぐ進んでいく。この先としか聞いていなかったし、詳しい場所も聞けば良かった、と思ったところで、不意に古ぼけた日本家屋が視界に飛び込んできた。テントや蓙、即席の屋台などが並ぶ中に異質な店構えに思わず足を止めれば、提灯で照らされた看板に『香根』の文字。

「ここか」

 老舗だからすぐ分かるってこういう。と一人頷き、暖簾をくぐった。

「いらっしゃいませ。ようこそいらっしゃいました」

 暗く沈んだ店の奥から、老いた女性の声音が柔らかく私を迎える。

「本日はどのようなものをお探しでしょうか。安らぎの香に気持ちを高める香など、お客様のお志に沿う香りをご用意いたします」

 店内は様々な香りが強く漂い混じりあっているというのに何故か不快感は無く、むしろ雑多なのに統一感のある香りの集合体に包まれた瞬間、えもいわれぬ安心感がふっと胸中を満たした。逸っていた鼓動がゆっくりと、平静を取り戻していく。

「あの、ここに行けば死んだ猫を生き返らせてくれるって聞いたんですけど」

「反魂の香をお求めなのですね」

 冷静に考えればありえない言葉に、老女は動じることなく答え、ゆっくりと立ち上がる。

「詳しくお話を聞かせ願えますか」

 老女に促されるまま、猫と何年過ごしていたか、いつ死んでしまったか、そして死体は燃やさず埋めたことを話す。

「お客様のお手元に、その猫様の毛や爪、髭、生前好んで遊んでいた玩具などはございますでしょうか」

「はい、抜け毛がここに……」

 鞄に入れていた毛を出し、老女に差し出す。老女はそれを丁寧に、押戴く様に受け取り、

「少し、失礼致します。そちらにおかけになってお待ちくださいませ」

 と言って店の奥へ消えていく。私は大人しく示された椅子の上に座った。

 よく見れば、店の中は外から想像していたよりずっと広い。和風な店構えには少しミスマッチな綺麗なガラスケースの上段には、美しい箱に収められた線香が並び、下段には様々な色形の香炉と上品な匂い袋、それと香木だろうか、自然そのままの形をした木片が並べられており、よく見れば老女の消えていった店の奥は壁一面がびっしり引き出しになっていた。

「お待たせ致しました」

 音も無くふっと現れた老女に、思わずビクリと肩を跳ねさせる。すうと差し出された老女の右手には小さな香炉、左手には掌に収まるほどの小さなガラス瓶が載せられている。

「こちらの反魂香は戴いた猫様の毛を練り込み、作り上げたものでございます。少々お立ち願えますでしょうか」

 言われるがまま立ち上がると、香を持ったまま老女が私の周りをくるりくるりと二周ほど回る。フッと鼻先をよぎった香りの奥に、懐かしい猫の香りが染み込んでいる。

「こちらの小瓶には猫様の魂を呼ばい、留まっていただきます。こちらをお持ちになって」

 ガラス瓶と、コルクの蓋を受け取る。瓶の中には、先程の香と同じものだろう、白い煙が淡く揺れながら、何故か消えることなく揺蕩っている。

「反魂には幾つかの決まりがございます。破らず、お守りいただけると約束願えますか」

「勿論です。猫がかえってくるなら、何でもします」

 老女の口元が柔らかな笑みを湛えた。手に持っていた香をコトリと起き、それでは、と私に向き直る。

「まず、こちらからお戻りになった後、心苦しいとは想いますが、猫様の墓を掘り起こし、そのお身体の一部をこの瓶の中に入れてください。これは、掘り起こしたものでないといけません」

「墓を……」

「はい。それが、呼び戻す猫様の魂に一番近しく在るものだからです」

 老女は言葉を続ける。

「瓶の中に入れましたら、こちらのマッチを包んでいる紙で擦り、瓶の中へ。その場から動かず、マッチが全て燃え尽きてなお炎が消えず残ることをお確かめください」

 そう言って差し出されたのは分厚くザラザラした和紙に包まれた一本のマッチ。一見何の変哲も無いマッチに見えたが、よく見ると枝の部分に細かく、何かが彫り込まれている。

「最後に、墓をまたぎ、ご自宅までお戻り頂ければ猫様の魂があなたの側にお返り致します。――けれど、ここで絶対に守って頂かなければいけない決まりが一つ」

 老女の声が強められる。

「ご自宅に帰り、玄関の扉を閉めるまでけして後ろを振り向かぬ事。これをお破りになれば、猫様の魂が戻らない事は勿論、お客様にも危険が及びます」

「……分かりました」

 真剣味を帯びた口調に気圧されながら、私は頷く。そうだ。非日常に放り込まれ麻痺してしまっていたが、死んだ猫を呼び返すなんて、そんなこと。

 小瓶を持つ手に力がこもる。

「こちら、使わなかったものはお返し致します」

 差し出された、グレーの毛玉。触れると何処までも柔らかく細いその毛質に、掌に残る猫の背中の質感が蘇った。

 ――猫。世界で一番大好きな、私の愛しい猫。

「ありがとうございます」

 ぎゅっと小瓶を握りしめ、毛玉を袋に仕舞いなおし鞄に入れる。

「あの、お代は」

「こちらのお香の残りをわたくしめにくだされば、それをお代に」

 老女が指し示したのは、猫の毛を練り込んだというお香。首を縦に振ると、老女はにっこりと笑い、

「くれぐれも、先程申した約束事をお破りなさらぬよう。それだけ心にお留めくださいませ」

 そう言い残し、老女はもう一度頭を下げて香と共に店の奥へと消えていく。私はありがとうございました、と言い、渡された小瓶とマッチを持って店の外へと駆けだした。

 人混みをかき分け、元来た場所を目指して走る。

 これで、私の猫が。

 高揚と不安と嬉しさと恐怖が混じり合い、心臓がバクバクと早鐘を打つ。暫く走り、見覚えの在る店の並びにキョロキョロと周囲を見渡せば、不自然に空いた黒い隙間から人工的な白い光が差し込んでいる。

 ここだ。呟き、隙間に身体を滑り込ませる。一瞬、くらりと視界が揺れた気がして、気がつくと猫を埋めた路地に戻ってきていた。慌てて振り向くが、建物の隙間からは変わらず白々と街灯の明かりが差し込み、辺りはシンと静まりかえっている。

「……夢?」

 提灯を握っていたはずの、今は何も持っていない左手を見下ろして呟き、次いで右手の違和感にぞくりと背筋が震える。

 恐る恐る右手を開くと、中には煙の閉じ込められた小瓶と、和紙に包まれたマッチが握り込められている。

 夢じゃ、なかったのか。

 右手に握られていたものと猫の墓とを見比べる。今更のように自分が『何処』に迷い込んでしまったのか、あの場が何だったのか、訳の分からない恐怖がつま先から滲むようにじわりと這い寄ってくる。

 でも。

 私は地面にしゃがみ込み、猫の墓を指の腹でそっと抉った。そのまま、ゆっくりと墓を掘り起こしていく。

 あの場がただの夢ではないことは手に握っていたものが証明している。それなら、きっと多分本当に猫にまた会える。私の愛しい猫に。

 ただその一心で墓を掘り起こしていくと、指先が土とは違う異質な感触を拾った。鞄から取り出したスマホで照らすと、土に塗れた、懐かしいグレーが土の隙間から覗いている。

「居た……」

 毛を掴もうとしたが、土に暫く埋められていたせいかモロッと崩れてしまう。散らばりそうになるそれをなんとか掻き集め、小瓶の中に入れた。

 言われたとおりマッチの火を点け、瓶に入れる。マッチの炎は何故か青白く、奇妙に温度を感じない。

 瓶の中でマッチは一層盛んに燃え続け、柄の先まで燃え尽きた瞬間、フッと小さな青白い光の玉に成って静かに明滅した。老女の言ったのはこのことか、と思いながら小瓶の蓋を閉め、前を見据え隙間から大通りへと通り抜けた。

 背後で奇妙な音が聞こえた。

 ビク、と身を強ばらせ、足を止める。何とも形容しがたいその低い音は、例えるならば重い土の塊を持ち上げ、落としたような……。

 ペタ、ピタ、グシュ、と異様な音を耳が拾う。普通にしていれば聞き逃してしまうであろう微かな音なのに、恐怖で鋭敏になった耳には鮮明にその音が聞こえてしまう。なにか湿ったものが擦れ得るような音。何かを引き摺るような音。ハァァ、とざらついた空洞を風が通り抜けていくような音がする。

「……居る、の?」

 奇妙な風音が返事をするようにまた響く。

 ゴクリと生唾を呑み込む。じわりと脂汗が滲む。背後に居るのは、猫? 蘇った猫が、後ろに。

 土の中で腐り崩れた猫の死骸がゾンビさながらに立ち尽くしている図を思い浮かべてしまい、背筋が凍った。ヒュウと喉が鳴り、全身に怖気が走る。

 今すぐにでもその場から立ち去りたいのに、足が上手く動かない。震える足で一歩を踏み出し、自宅へと歩みを進める。と、風音と共に踵の上辺りにこつりと何かが当たった。

いや、当たった、というのは正確な表現ではないかもしれない。踵部分に触れたそれに確かな質感はなく、例えるなら空気の固まりがやんわりと触れたような。けれど、その触れ方に、その確かな感触に私は小さく声を漏らした。

「……居るんだね、そこに」

 甘える時に足におでこをぶつけてくる癖。後ろから気まぐれに近づいてはおでこをぶつけ、私が転びそうになるのを意にも介さず全身を擦り付け去っていく猫の仕草。

 名前を小さく呼べば、ざらついた風音が答えるように微かに響く。

「本当に、返ってきてくれたの」

 さっきまで恐怖で満ち満ちていた胸中を、ゆっくりと喜びが塗りつぶしていく。

「ごめんね、怖がって。一緒に家にかえろう」

 目を閉じ、掌を後ろに向けてしゃがむと柔くてざらついた感触が掌を過ぎてゆく。立ち上がり、真っ直ぐ前を向いたまま歩いた。

 駐車場を通過し、共用の廊下を通り階段を上る。不思議と玄関に近づくにつれて背後をついてくる気配から不気味さが消え、記憶に残る懐かしい猫の気配へと変化していくように思えた。鍵を差し込んでノブを握ると、すっかり異音の混じらなくなった足音がタタッと駆け寄り、滑らかで柔らかい毛の感触が足首を撫でていく。

「今開けるね」

 扉を開け、中に入る。ギイと背後で扉の閉まる音がし、パチンと玄関の明かりを点けた瞬間、完全に扉の閉まりきる音がした。

 バッと振り向き、猫の名前を呼ぶ。するりと足元を黒い影が滑り抜け、部屋の中へと走って行くのが見えた。

「待って」

 靴を乱暴に脱ぎ、部屋の電気を慌てて点ける。――白い壁に、澄まして座る猫の影が映り込んでいた。影の周りはほんのり淡い青に染まっている。ハッとして手元の瓶に視線をやると、瓶の側面に、壁に映っている影と寸分違わぬ仕草と姿をした、黒い猫型の影が張り付いているのが分かった。これが光源である瓶の中の青い光を遮り、壁に猫の影を投影しているのだ。

影は私の姿を認めると、さも『遅い』とでも言いたげに尻尾を揺らし、スッと歩き出した。影は壁を移動し、床を滑り、私の足元をくるりと一周するとお気に入りの猫ベッドの底にくるりと丸まった。


「ただいま」

 声をかけながら玄関を開けて電気を点けると、タタッと微かな足音と共に黒い影が廊下を滑ってやってきた。影のある場所に手を差し伸べると、掌を押す確かな感触が伝わってくる。

「いいこにしてた?」

 足元に纏わり付く影に話しかけながら上着を脱いで鞄を置く。影の猫は先程までの熱烈な歓迎が嘘のように部屋の隅に移動し、毛繕いにいそしんでいる。

「……まーた毛がボサボサになってる。全然毛繕い上達しないねぇ」

 呟き、笑いを零した。下手くそな毛繕いで乱れた毛のシルエットは、例え影になっても生前と変わらず可笑しく、愛おしい。

 ――猫が、生きたままの姿で返ってきてくれると、そう期待していなかったと言えば嘘になる。影という形でしか側に居られない事に強いもどかしさも感じる。

 それでも、もう二度と会えるはずのない猫が、こうして側に居てくれる。懐かしい仕草や癖は影になっても健在で、それを見る度、ああ、この影は間違いなく私の大切な猫なんだなと実感できた。たとえあのグレーの毛並みや美しい瞳を見られなくとも、声を聞けなくとも、はっきりと触ることが出来なくとも、ただ愛した猫がこの場に居てくれる。それだけで十分だと、そう思うようになった。

 愛しい猫の影と共に過ごす生活。これが今の私のいつも通りとなった。

胡座をかいて座ると、寄ってきた影が膝の上に凝って丸くなる。手を添え、撫でる仕草をしながら名前を呼び、ずっとずっと、大好きだよ。と囁くと、猫は口を開けて、聞こえぬ声でにゃあと鳴いた。



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