スウィテスト・スウィテスト・スウィテスト・バイトゥ sweetest sweetest sweetest bite

誰かが私に言ったのだ。

「スウィテスト・スウィテスト・スウィテスト・バイトゥ」と。


 この山尾悠子「遠近法・補遺」風の書き出しはあまり良くないようだ。

訂正せねばなるまい。


 というのも

「スウィテスト・スウィテスト・スウィテスト・バイトゥ」

と言った「誰か」が何者であるかは自明だからだ。


 SHHis。

私はSHHisについて無知である。

それどころか『アイドルマスターシャイニーカラーズ』についても。

つまりこの勝負――おお、私にとって作文はいつだって勝負だ! 「この小説はの一種だと思って頂きたい」とは澁澤龍彥訳のマンディアルグ『城の中のイギリス人』の扉に書かれた言葉であった!――ははなはだ不利であるということになる。


 しかし私は果敢に立ち向かうであろう!

何故なら私にとって書くべき対象といえばこの「スウィテスト・バイトゥ」以外に存在しないのだから。

あっさりと諦めては退である。


 いみじくも「スウィテスト・バイトゥは人生に似ている。重大に扱うのはばかばかしい、重大に扱わねば危機である」と言ったのは芥川龍之介であった。

しかしこの発言もまた完全ではないように思われる。

それは『侏儒の言葉』が彼が自裁する晩年に執筆された箴言アフォリズム集であり、彼の精神は既に限界に近かったからではない。


「スウィテスト・バイトゥ」は「重大に扱うのはばかばかしい」作品ではない。

むしろ「重大に扱う」べき作品である。

「スウィテスト・バイトゥ」は天下の俗物たる極めて優れた作品である。

おお、芥川龍之介よ! 危機に瀕して君の判断力も弱ったと見える!


 今この時間にも私の狭い書斎(と、呼んでいるコドモ部屋)において緋田美琴と七草にちか女史による歌唱「スウィテスト・バイトゥ」が鳴り響いている。

私は殊に緋田の歌声を好む。

些かヒステリックで神経質な七草のヴォーカルに対して落ち着いてくすんだ色彩を持つ緋田のヴォーカルは男性的である。

特有のダンディズムを感じさせるのだ。


「スウィテスト・スウィテストスウィテスト・バイトゥ」

このサビを緋田が歌唱する時、私は感動のあまり椅子から起立してウロウロしてしまう。

実に良い声だ! 実に――。


「スウィテス・ウィイテス・ウィイテス・バーイ」。

正確に文字に起こせばこういうことになるであろうか。

「スウィテス・ウィイテス・ウィイテス・バーイ」。

実に軽快な本国アメリカ風アメリカンな発音だ。


 しかし緋田女史の「淡かった」はどう清聴しても「あ! 分かった!」である。

発見の喜びを表すことと言えばアルキメデスの「我、発見セリヘウレーカ!」と変わりない。


 私は緋田の美しいツリ目と声が何と言っても好きである。


「ファッショネイブル」を聴く。


 私はフラメンコ的な和声が好きだ。

一時いっときはビセンテ・アミーゴやパコ・デルシア、またはサビーカスばかり聴いていたくらいだ。


「ファッショネイブル」がラテン的音楽であることは一聴して即座に了解できた。

「コーズ・アイ・アイ・アイ・ファッショネーボーゥ」

と発音している。

純米国的アメリカンな美しい英語だ。


 興味深いのはこの

「ファッショネーボーゥ」である。

「ファッショネーボーゥ」という発音をすることによって

後の「さきがけよ」と上手に韻を踏むことに成功しているのだ。


 ここでも緋田は美声のヴォーカルを発揮している。

この声の深みときたら大したもので、まさに殺し屋的ダンディズムそのものだ。

緋田は七草の力強い人間的なヴォーカルを制し歌の〈美味しいところ〉を完全掌握している。


 七草のヴォーカル・スタイルはむしろ「引き立て役」というよりはパワフルな主役級のものなのであるが、これを上手く乗りこなす点に緋田の凄みがあるという事になるであろう。


――二人にとって音楽は常に勝負であった。

剣豪的な一騎打ちの構図で音楽は進行してゆく。


 さて、SHHisの引用はここまでにしておこう。


 繰り返しになるが私はSHHisについて無知である。

――緋田氏についても。


 しかし私は書き始めたこの原稿を完成させねばならぬ。

絶対に完成させなければならないのである。


 ボーンボーンと時計が音を出す。

時は零時。

弱音を吐くようだが実を言うと私の脳は極度に疲労しているのだ。


 ここで小林秀雄を引用しよう。

「悩むくらいなら手を動かせ」とは数学の鉄則であった。

作文においてもこの原則は通用するようである。


「SHHisの悲しみは疾走する。涙は追いつけない」、か。


「それは古人の言った『かなし』と同じくらい悲しい」とでも続くのであろう。

しかしこれ以上の引用は無意味だ。


 果たしてSHHisは悲しんでいるのだろうか?

悲しんでいるような気もする。


 何故と申せばこの「ファッショネイブル」も「スウィテスト・スウィテスト・スウィテスト・バイトゥ」も短調であり特有の哀愁が漂っているからだ。

哀愁を裏打ちする強烈な情熱。

それがSHHisの音楽ではなかったか。


 しかし小林の言及にもまた、芥川の言及と同様に錯誤があるように思われる。

それというのもSHHisの音楽は哀愁のみではなく一種の希望も存在するからだ。


「フライ・アンド・フライ」はそうした性質を表すに好適の作品である。

「フライ・アンド・フライ」は彼女ら二人の飛翔を描いた劇的な歌だ。

空を翔ける悦びを彼女らは知っていた。


 SHHisに絶望は無い。

彼女らの精神は前を向いているのだ。

したがって彼女らの音楽を「悲しみ」のみで説明しようとする小林もまた多少間違っているということになるだろう。


 おお、謎多きSHHisよ!

私は彼女らの歌をこれからも聴き続けるであろう!


 SHHisの歌はに似て謎が多くに似て神秘の香り高い。

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