エピローグ

 あれから一年が過ぎた。

 あの日から、日和子は失踪したことになっている。俺が買い物に行って帰ってきたら、いなくなっていたと。警察の捜査は進展していない。当たり前だ、なんの物的証拠もないのだから。

 俺が部屋に引きこもりがちになっても、親は何も言わなかった。ありがたく思う。出張で家をしばしば空けてくれるのも都合が良かった。

 学校には、最低限は通っている。俺はオカ研に入った。水戸先輩はあの夜のことを覚えていて、けれどそれを話題にはしない。彼女からたくさんの都市伝説や妖怪の話を教えてもらった。第二図書室においてある彼女の蔵書も片っ端から読んだ。何冊かは譲り受けた。


「堤くんもオカルトを好きになってくれて嬉しいわ」


 彼女はそう言って笑ったのだけれど、俺はその返答に窮してしまったので、あるいは何かを察していたかもしれない。

 三月には水戸先輩は卒業した。記念にゾンビウサギのぬいぐるみをあげたら大変喜んでいた。それは可愛らしい、普通の女の子みたいに。

 オカ研の部員は俺一人になった。このままだとじきに廃部になるだろう。だが、別に良かった。もう、どうでも。


§


「つっつみーん」


 下駄箱で靴を履き替えているところで千川さんに声をかけられた。三年生になった千川さんは新聞部の部長になったらしく、いつもちょこまかと忙しそうに駆け回っている。

 あの日以来、人付き合いを少し避けるようになった俺にも千川さんは変わらずに優しい。はじめは日和子のことについて嗅ぎ回られたらどうしようかとも思っていたが、そのラインは越えるものではないと判断したのか、触れずにいてくれた。ありがたいことだ。


「今から帰り?」

「ああ。千川さんも?」

「んーにゃ、私は今から部活」


 千川さんが首から提げたカメラを持ち上げて見せた。


「なんかね、最近またきな臭い事件が色々起こってるみたいなんだよね」

「事件?」

「なんか、鳥とか猫とか、小動物が殺されてたりするんだって。それが血だけ抜かれた状態で見つかったりしたらしいよ?」

「うへぇ」


 嫌な事件だ。俺は思わず肩を竦めた。


「やばそう。あんまり危ない事に首突っ込むなよ」

「平気平気。自衛は得意だから」


 千川さんが俺に親指を立てて見せた。にかっと快活な笑みを見せていた彼女だが、ふと俺の手元に目を留めるときょとんと目を丸くした。


「つつみん、どしたのその手袋」


 彼女に指摘され、俺は手袋をはめた手を胸元まで上げた。黒色の手袋だ。薄い布で出来ているものを選んだのだが、春にこれは若干暑い。

 だが、念のためとはいえつけなければならない理由があるのだからしょうがない。


「ちょっとこの前やけどしちゃって、痕が気になるから、治るまでつけとこうかなと」

「あ、そうなんだ。えーと……ごめんね?」


 千川さんが戸惑いに眉をハの字にした。その可愛らしい表情を見て俺はくすりと笑う。


「いや、気にしないでいいよ、嘘だし」

「嘘なの!? え、じゃあ何? 遅れてきた中二病?」

「そうそう、かっこつけのために」

「ぜーったいそれも嘘だ……」


 千川さんが疑うようなジト目で見てきたが、俺はひらりと手を振って躱した。爪先で地面を蹴って靴を履き、俺は彼女に「じゃあね」と別れを告げる。千川さんも「また明日!」と大きな声で言って、これまた大きく腕を振る。

 いい人だなあ。千川さんは。出来ればずっと仲良くしていたいものだ。


 俺は寄り道もせずに真っ直ぐ家に帰った。今日も両親は出張で家を出ている。

 俺は置きっ放しになっていた試験管を、三重にしたビニール袋の中に突っ込んだ。固まりきっていない赤が指先に付着した。俺は制服の裾でそれを拭う。洗濯してももう綺麗に落ちないだろうか。なんでもいいけど。

 俺は机の上に置かれた写真立てを手に取った。俺と日和子が並んで映っている。かなり昔のものだ。中学に入って以降は一緒に写真を撮る事なんてなかった。

 惜しい。悔しい。顔を、声を忘れてしまったらと不安になる。

 俺は目を瞑って彼女との日々を思い出す。どんな些細な出来事さえも日々掘り返すのが日課になっていた。記憶の連続性だけを信頼している。たとえば彼女に麻婆豆腐を作ったこと。それが何の日であったかは覚えておらずとも、ごちそうさまの笑顔だけは忘れてはならない。

 そんな風にぼんやりとして、どれだけの時間が経ったのだろう。

 最近時間に限らずあらゆる感覚がおかしくなっているのを自覚する。耳鳴りが酷い。油断すると意識が掻き消えそうになる。その度彼女の名を呼び取り戻す。

 でも、そんな日々も終わりだ。


「日和子」


 この響きだけが俺を世界に繋ぎ止める。絶対に巡り会うと言った。それは今日だ。

 さあ、世界の敵になりにいこうか。


§


 二号館の屋上へのルートは、水戸先輩からの情報と自身の調査で既に組み上がっている。屋上への鍵は日中の間に削っておいた。

 暗い廊下に恐怖心はない。部室においてあった強力な懐中電灯を勝手に拝借して床を照らす。階段を上り、美術室の前を通る。ふとドアを開き、室内を照らしてみたが何もいない。

 足音が誰もいない空間に響く。屋上へと続く扉を開けると、風が吹き込んできた。空には月が上っている。真っ二つに分断されたような半月だ。

 俺の記憶には、夜の風景ばかりが深く染みついている。

 俺はフェンスにまで近付くと、編み目に爪先を引っかけて無理やり上った。一番上になんとか腰掛ける。落ちれば生身の身体は潰れてしまうだろう。

 俺は手袋を外し、眼下に向かって投げ捨てた。そっと手を空中に向かって差し出す。

 小さな傷がいくつもついた、けして綺麗とはいえない手。だが、普通の手だ。隠す必要もないような。

 俺はふっと息を吐いた。

 黒い紋様が指先から咲き始める。

 それは幾重にも、幾重にも線を重ね手の甲からその先まで模様を紡いでいく。黒く染めていく。肌の隙間を覆うようにぐにゃぐにゃと這い回り、指の先まで巻き付いている。

 手だけではない、この紋様は腕を這い、上半身から脚に至るまで俺の肌をほとんど埋め尽くしている。今が春で良かった。夏場だったら面倒だった。

 その程度の感慨しかない。


「じゃあ、やるかぁ」


 誰に言うもなくぽつりと呟くと同時、紋様が黒い光を発した。わずかに濃淡の異なる大量の影が湧き上がる。俺の頭上に大きな怪物が出来上がり、月光を遮る。

 俺はそれを見上げた。影と影が絡み合った生き物を俺の知る名詞で名付けることは出来ない。

 強いて言うなら『怪異』と呼ばれるべきものか。

 不格好な黒い雲は向こう、校庭の方までその指先を伸ばしていく。その下の地面に影が出来る。暗がりになった地面が盛り上がり、そこからゾンビが次々と産まれていく。ぞろぞろと彼らは校門から出ていく。

 ああ、頭ががんがんと痛む。耳の奥で何かが喚いているような感覚がするが、


「うるせぇ!」


 一括して黙らせた。

 これは俺の身体だ。俺の意識だ。誰にも渡さない、死んでも死ぬものか。

 俺はポケットからスマホを取りだした。SNSを開き、クラスメイトの投稿を探る。履歴普通の話題がメインだ。その中にぽつりと、写真付きの投稿が上げられた。


『ねぇ、なんか月ヤバくない?』


 ぼんやりと見上げれば、半月が赤く染まっている。不吉だなぁ。こんなことにまでなるのか。自分の力のはずなのだけれど、使うのは今回が初めてなので少し驚く。

 まるで世界の破滅の時みたいだ。

 だとしたら、俺は魔王かなにかなのだろうな。ああ、いや、ヴィランなのか。笑おうとして噎せた。乾いた咳が零れる。

 ふと、背後から足音が聞こえた。

 ヒーローのお出ましだ。悪者を退治するのはヒーローだとそう決まっている。それは大いなる因縁なのだから。

 俺はゆっくりと振り返った。


「久しぶり、だな」


 そこには俯いた少女が立っていた。少し髪が伸びただろうか。制服のような格好は正直あまり似合ってない。まあそれはそれでコスプレじみているので嫌いではない。

 俺はフェンスから屋上に飛び降り、同じ高さから彼女を見た。シルエットに変わりはないのに、身に纏う雰囲気は記憶と大きく違う。鋭く、冷たい。刃を連想させる。

 彼女の頬には紋様が浮かんでいる。綺麗だ、花に似ている。華やかな薔薇は彼女によく似合う、ささやかな棘も愛らしかろう。

 彼女が俯いたまま、ゆっくりと一歩ずつ彼女が俺に近付いてくる。少女は何も言わない。ただ、たおやかなように見えて、しっかりとした足取りで距離を詰めてくるまでだ。


「日和子」


 俺は彼女の名を呼んだ。この一年何度だって舌に乗せた名前はこの瞬間初めて意味を持った。

 日和子はゆらりと足を止めた。顔も上げず、何も言わなかった。赤い空の下で対峙する時間は現世から切り取られていた。空気が静かなのは彼女の声を聞き漏らさないためだ。

 日和子がゆっくりと顔を上げた。


「嘘つき」


 責めるような声音。


「会いに来るって言ったくせに、結局あたしが来てんじゃん」


 顔を上げた彼女は口元に悪戯めいた笑みを浮かべていた。猫みたいな瞳を細めて、お転婆に身体を揺らして。頬に差す朱は、月光のせいなんかじゃない。

 情けなくも視界が滲んだ。頭の中で思い浮かべた像とは比べ物にならないくらい、愛おしくて胸がいっぱいになる。好きだった気持ちを鮮烈に思い出す。心を支配するような、頭を焦がすような情動が身体を突き動かす。

 日和子が軽い足取りで俺に駆け寄り、勢いよく抱きついた。華奢で、それでいて確かな感触を抱き留めた。あたたかい。やわらかい。愛おしい。

 腕の中で俺を見上げる笑顔箱の世界のどんな宝石よりも輝いていた。目の端に浮かぶ雫の一粒さえ、世界の全部でも引き替えられない。

 胸の内から溢れる言葉は、ちっとも奇をてらわないものだった。


「会いたかった、日和子」

「うん……あたしも」


 破滅みたいな色をした空の下で俺たちはキスをした。誰にも祝福されなくてもいい。俺たちはこの世界の誰よりも幸せだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

足癖の悪い彼女 総合検診センタ @sumiley7

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ